「現在、この地域に銃を所持した凶悪犯が潜伏している可能性があります。住民のみなさんはなるべく外出を控え、戸締まりなど十分注意していただくよう・・・」
パトカーが、夕暮れが近づいた街を巡回していた。そのアナウンスを苦々しく思いながら聞いていた男は、パトカーが見えなくなると、そっと歩き出した。その手には、拳銃が鈍く光を放っていた。


「で、どうするんです?」教室の窓から、薄暗くなりつつある校庭をぼんやり見つめながら、孝は尋ねた。
「どうするんですって言われたって・・・」昌明はシャープペンシルをもてあそびながら答えた。連続3回宿題をやってこなかった昌明は、放課後残って、今までの宿題を全部やるように先生に言われていた。
「もう、外は暗くなって来ちゃいましたよ?」一向にすすまない昌明のノートを見ながら、孝は(今日は遅くなりそうだ)と思った。(こんなことになるのなら・・・つきあうなんて言わなきゃよかった)少しふてくされ気味に机の上に座った。
「もう、わかんねーもんはわかんねーし・・・このまま帰っちまおうか?」
「だめですよ、連続3回宿題忘れた先輩が悪いんですから・・・早くやっちゃって下さいよ」
「ったく・・・」後輩で親友の孝にそう言われたら、やるしかなかった。昌明はしぶしぶ教科書の彼にとっての暗号のような数式を理解しようと努めた。
「言っときますけど、僕はまだそれ習ってないから、聞いても無駄ですよ」
「わかってるって」そう言いながらも、さっきから何回か孝に質問し、その度に孝は教えていた。
「なぁ・・・これなんだけど」昌明が孝に尋ねる。
「聞かれても分からないっていったじゃないですか」そう言いつつも、孝は教科書をのぞき込んだ。

(学校が一番いいな)男は人目につかないように歩きながら、どこに隠れるのが一番いいかを考えていた。学校ならば、この時間は生徒も、そして教師の大半も帰っている。たくさんの部屋があり、隠れるための机もある。当直が見回りに来るかも知れないが、机に隠れてやり過ごし、そして明日の朝、最初に登校してきたやつを人質にとれば・・・そして、目の前の学校らしき建物へと忍び込んだ。

孝は机を3つ並べて、その上に横になっていた。もう待ちくたびれて、先に帰ろうかとも思っていた。さっきよりは少しは進んだが、それでも4ページある宿題のまだ2ページ目だった。
「先輩〜」
「なんだよ」
「進みました?」
「進んでねえ〜」このやりとりが、さっきから何度も繰り返されていた。

学校に忍び込んで、足音を立てないように廊下を歩いていると、まだ明かりの灯っている教室があった。反射的に身を隠しながら、しかし男はその教室に近づいていった。右手に持った拳銃を握りなおして・・・

そっとドアの窓から中をのぞくと、その教室には少年が二人いるだけだった。しかし、用心深く、しばらくはその様子を探っていた。
「先輩〜、もう先生も帰っちゃいましたよ、まだ出来ないんですか?」
「うるさいな・・・だから、もうやめて帰ろうって言ったじゃん」
「だめですよ、ちゃんと最後までやらないと。あと何問残ってるんですか?」
「あと・・・4問」
「早くやっちゃってくださいよね〜」孝はそう言ってちらりと教室のドアを見た。そして、そこからのぞき込んでいた男と目が合った。

机の上で寝転がっていた少年と目があった瞬間、男は教室のドアを乱暴に開け、その少年の方に突進した。持っていた拳銃のグリップで頭を殴り、気を失った少年のこめかみに銃を突きつけた。
「ドアを閉めろ」なにがおこったのか把握できずにいる昌明に命じた。昌明は訳が分からないまま立ち上がり、言われるままにドアを閉めて机に戻った。じっと男の方を見る。そして、ようやくその手に握られた物が拳銃であることに気が付いた。

最初の犠牲者は当直の若い教師だった。彼は、まだ照明が灯っている教室に生徒が残っているものと思い、ドアを開いた。その瞬間、彼の腕になにか熱いものが飛んできた。一瞬後、激しい痛み。そこで彼は、銃を持った凶悪犯がこの教室に潜んでいることに初めて気が付いた。必死で職員室に逃げ帰り、110番に通報した。長い夜の始まりだった。

「お前ら、ツキがなかったとあきらめな」教室の一番後ろの窓側の席に座っている昌明と孝に男はそう声をかけた。他の机は二人を取り囲むように、乱雑に移動されていた。そして、その机の輪の外、教室の一番前の窓際に男は座っていた。男の背後の校庭に面した窓にはカーテンが引かれていたが、男は自分の影がカーテンに映らない位置にいた。
「俺は人を殺した。だが、まだ捕まるわけにはいかねーからな。お前らは人質だ」さっきから同じことを何度も繰り返していた。昌明も孝も、なにも言わずにうつむいたままじっと座っていた。沈黙が時を支配した。

「何でこんなことするの?」沈黙に絶えきれずに孝が口を開いた。だが、答えなど期待してはいなかった。
「言ったろ、俺はまだ捕まるわけにはいかねーんだよ」意外にも、男が質問に答えた。
「な、なんで?」
「まだ殺さなきゃならない奴がいるからだよ」男の声が低くなる。その声はその答えが嘘や冗談ではないことを物語っていた。またしばらく沈黙が訪れた。
「お、俺たちも殺すの?」今度は昌明が尋ねた。少し声が震えていた。
「逆らったら殺す」男が断言した。
「でも、人質を殺したら意味ないよ」気丈にも、孝が反論する。
「ごちゃごちゃうるさいガキだな、死ぬか?」男の声に少し怒りがこもっていた。それを感じ取った孝は口をつぐんだ。

やがて、窓の外が騒がしくなった。男はカーテンを少し開けて様子をうかがい、校庭に2台のパトカーが来ていることを知った。パトカーはつい今しがた到着したばかりらしく、男がカーテン越しに見ている間に二台の車から五人が降り立った。そのうち四人は警官の制服を着ており、もう一人は背広姿だった。男はカーテンを閉じ、二人に床にうつぶせになるように命じた。

やがて、教室のそとで声がした。
「佐久間、そこにいるのは分かっている。もう逃げられない。おとなしく人質を解放しろ」おそらくはハンドマイクを通しているのだろうが、そのやたらと大きい地声は拡声された音とともに教室まで聞こえてきた。
「うるさい、だまれ」男が銃をうつぶせになった昌明に向けた。
「ガキを殺されたくなかったら、この部屋に近づくな」男は両手で拳銃を握りしめた。
「お前の望みはなんだ?」また地声とともに拡声器の声がした。
「とりあえずの望みは、お前らがこの学校から出ていくことだ」
「だが、それではお前と話すことはできない。お前の望みを聞いてやることもできんぞ」
「やかましい!」男は銃を教室の後ろの黒板に向け、引き金をひいた。夕闇が濃くなりつつある学校に銃声が響いた。
「わかった、いったん我々は校舎から出る。だが、いいか、絶対にその子たちに危害を加えるな」
「それは俺が決めることだ」男はそう言って、再び銃口を昌明に向けた。

表はすっかり暗くなっていたが、警察が準備した投光器が校庭を明るく照らしていた。校舎から制服の警官が3人出てくるのが見えた。そのとき、男の背後で急に声がした。
「我々は校舎から出たぞ。約束通り、その子たちを傷つけるな」それは校内放送用のスピーカーから聞こえていた。
「なにを言ってやがる」そう毒づくと、男は昌明に尋ねた。
「こっちからは話せねーのか?」昌明は黒板の脇を指さした。そこには小さなスイッチがあった。男はそのスイッチを入れた。
「おい、聞こえるか?」
「ああ、聞こえる。約束しろ、その子たちには危害を加えないと」
「約束? まずはお前らの方が守れよな」男はマイクを探しながら大声でわめいた。昌明が再び壁を指さす。そこに集音マイクが設置されていた。
「我々は約束を守った。校舎のそとで待機している。次はお前の番だ」
「ほぉ・・・そういうお前はいまどこにいるんだ、え?」男は集音マイクに向かって、今度は普通にしゃべった。
「しかし、交渉が」
「だまれ! お前らはうそつきだ。いまから1分以内に全員校舎の外に出ろ! でないとガキを殺す」そして、マイクのスイッチを切った。
窓から背広姿の男と警官がパトカーの方に歩いていくのが見えた。

男はスピーカーのスイッチの前に椅子を置き、そこに座った。そして、それまで床にうつぶせになっていた二人を元の椅子に座らせた。
「どうだ、お前ら。俺がこの銃の引き金を引けば、お前らなんか簡単にぶち殺せる」そう言って、銃で教室の後ろの黒板を指し示した。
「あんな風に穴を開けてやろうか、お前らの頭に。それとも、腹がいいか? え?」男は立ち上がって、二人に近づいた。
「死ぬの、怖いか?」男は楽しんでいるように見えた。
「短い人生だったな、おい。お前ら、今まででなにか楽しいことあったか?」銃口が昌明と孝の間で揺れ動く。
「ふん、お前らなんて、オナニーくらいしか楽しいことはねーんだろ。女を抱いたことはあるのか?」二人はなにも答えなかった。答えるのが怖かった。
「じゃ、オナニーの時どんなこと考えてるのか言えよ」男は昌明の頬に銃口を押し当てて言った。
「同級生でも犯してんだろ? 妄想のなかで。言えよ、どんな妄想でしてるのか」男の親指が撃鉄にかかる。答えなければ殺す、とその目が言っていた。
「俺は・・・そんなことしてない」かろうじて聞き取れる位の小さな声で答えるのがやっとだった。
「ほぉ、それはまじめなこって。気に入らねーな、お高くとまりやがって。俺みたいな奴の言うことには汚らわしくて答えられねぇっていうのかよ? 殺すぞ、てめぇ」昌明の頬に押し当てた銃口をぐいぐいひねった。
「俺・・・そんな想像しないし・・・女の子なんか想像しないし・・・」昌明の声は震えていた。
「俺・・・俺、ゲイだもん」怖さに耐えきれなかったのか、あるいは言いたくない事実を無理矢理告白させられたためか、昌明は半分すすり泣きながら言った。
孝は、昌明の意外な告白を聞き、心が一瞬ぎゅっとつかまれたような気がした。
「おい、聞いたかよ、こいつ、おかまなんだってよ。じゃ、おかまちゃんはオナニーの時なに想像してるのか言ってみなよ、え? 男の友達の裸でも想像してやってんのか?」男は容赦なく昌明の心をなぶりものにした。昌明は頷くことしかできなかった。
「そこのちっこい奴の裸でも想像しながらシコシコしてるんだろ、えぇ? おかまちゃんよ」男は銃口を軽く孝に向けて振りながら言った。
昌明は、真っ赤になってうつむいた。
「これはこれは・・・このおかまちゃんはお前の裸想像しておっ勃ててるんだとよ、気持ちの悪いガキだぜ。お前ら二人のうち、どっちを先に殺すか、決まったな。な、おかまちゃんよ?」男はそう言って、昌明の前に立ち、うつむいている昌明の頭に銃を向けた。昌明はぎゅっと目をつぶった。

「やめろ!」ずっと黙っていた孝が顔を上げた。
「なんだと」男は銃口を孝の方に滑らせる。
「先輩はなんにも悪いことしてない。あんたなんかとは違う、あんたなんかに先輩の悪口なんていう資格はない!」男の顔がみるみる赤く染まっていった。
「この、ガキが」男が椅子に座った孝の胸に蹴りを入れた。孝は椅子ごとうしろにひっくり返った。床に頭がたたきつけられるにぶい音がした。
「孝!」昌明が叫ぶ。その昌明の頭に再び銃口が向けられた。
「おっと、動くなよ、おかまちゃん」
孝がうめいた。頭を押さえて立ち上がろうとするが、力が入らずに床に座り込んだ。

「あんたに・・・あんたになんか、俺達の気持ちが分かってたまるか!」昌明が絞り出すように言った。
「俺は、ずっと、自分は人と違うって思ってた。自分は普通じゃないって。だから、みんなとは本当に分かり合うことなんてできないと思ってた。本当の友達なんて出来るはずがないって思ってた」男は銃を構えたまま、近くの椅子を引き寄せて座った。昌明の暗い声は続いた。それを聞いて、孝はあのころのことを思い出していた。



2階の窓際の席で、孝は授業が始まるのを待っていた。まもなく授業の始まりを告げるチャイムがなる時間、そして、孝は校庭の方に目を向けた。いつもの通り、一人の学生が駆け込んでくる。いつもの風景だった。一週間のうち、少なくとも3回は見られる、いや、むしろ見られない日はほとんどないとも言えるほどの見慣れた光景だった。でも、その日は少し違った。その少年は、走りながら孝を見上げて、にっと笑って手をあげた。まるで友達に挨拶するかのように、いつもそうしているかのように・・・
孝はあわてて目をそらした。

それから、それは毎日の朝の日課となった。
時間ぎりぎりで駆け込んでくる少年。それを見つめる孝。笑いかけ、手をあげる少年。その少年が、1年先輩の昌明であることを知ったのは、彼が廊下で声をかけてきた時だった。

「よう」あのときと同じように、昌明はにっと笑って手をあげていた。
「あ、朝の・・・遅刻魔」『遅刻魔』・・・それが孝がその少年に付けたあだ名だった。
「ひでぇな、遅刻魔か・・・けっこうぎりぎり間に合ってるんだぜ、これでも」そういって、また笑う。
「お前があの席に座ってないときは、まだ歩いてても間に合う時間。お前があそこにいると、走らなきゃ間に合わない時間って分かるから」
「それで・・・毎朝僕のほう見てるの・・・見てたんですか?」年上の少年を相手に、孝は少し口調を改めた。
「まぁ、俺にとって大事な目印だからな」
「それって・・・うれしくないです」
「まぁ、これからもよろしくな」そういって、昌明は孝の肩をたたいた。

それが二人の始まりだった。そして、孝にとって、この学校で初めてできた友達だった。

孝は中学の時はずっといじめられていた。この高校に入ってからは、表だったいじめはなかったが、それでも孝に話しかけてくる者はだれもいなかった。孝はいつも一人だった。そんな孝に初めて出来た友達は、スポーツ万能の人気者だった。

人気者と元いじめられっ子。この組み合わせは誰が見ても不釣り合いだった。が、この友達のおかげで、孝にも少しずつ友達が出来始めた。




「俺は・・・こいつが、孝がなんか普通じゃないって思ってた。なんとなく、同じように・・・人に受け入れられるのを拒んでいるように思えた。だから、友達になれるんじゃないかって思った。俺は孝のことが好きだ。でも、それはあんたが言うみたいなそんな関係じゃない。俺達は・・・」そこまで言って、昌明はうつむいた。
「親友だよ」孝が最後の言葉をつないだ。
「ちょっとびっくりしたけど・・・でも、先輩は先輩だし、僕も先輩は大好きですから」
男は黙って二人を見ていた。いつの間にか、銃を構えた手は垂れ下がり、銃口は床に向いていた。
孝は、その男の取り繕った乱暴な外面とはうらはらな、柔い内面を見た気がした。自分たちと同じように、人に見せまいとする内面が・・・

「ね・・・お・・・おじさんは、なんで人を殺したの?」思い切って孝は男に聞いてみた。
「なんでそんなことを俺が答えなきゃならない」不満そうな声で、しかし、銃はおろしたまま男が言った。
「おじさんも・・・僕たちと一緒のような気がする。人に言えないなにかをずっとしまい込んでるみたいな・・・そんな気がする」孝はこんな状況でこんなことを言っている自分が信じられない思いだった。
「そんなもんはねぇよ。俺はただ・・・女房を寝取った奴が許せなかったんだ」そして、男は話を始めた。



その日、いつもなら深夜に及ぶ仕事のはずが、トラブルで逆になにもする事がなく、男は久しぶりにまだそんなに遅くない時間に家に帰った。
なんとなく、いたずら心で妻を驚かそうとしたこと、今にして思えば、あんなことさえしなければ・・・
そっとドアを開ける。靴を脱ぐ・・・・と、そこには見慣れない男物の靴があった。
「泥棒?・・・まさか」そんなことはあり得ないと思うものの、男は不安に駆られ、無意識に玄関に立てかけてあったゴルフクラブをつかんだ。
彼の妻は居間にはいなかった。声がした。寝室から・・・
寝室のドアを開ける。驚いたように抱き合ったまま固まる二人。思わず手にしていたゴルフクラブで殴りかかる。男は素早くよける。ゴルフクラブは彼の妻の頭に命中する。その一撃が命取りだった。妻を殴ってしまったことに気を取られている隙に、相手の男は服を抱えて逃げ出した。頭から血を流し、絶命した妻を抱きしめ、そして彼は部屋の外に飛び出し、相手の男を追った。




「やがて、警察に通報されたんだろう、俺をおまわりが追い回し始めた。捕まりそうになった俺は、おまわりの首を絞めた。そして、持っていたナイフで拳銃の革ひもを切って、銃を手に入れた。これであいつを殺してやる、そう決めたんだ。だから、俺はまだ捕まるわけにはいかないんだ」そして、また沈黙が訪れた。
すでに夜の闇があたりを覆っていた。が、学校だけは、投光器で明るく浮かび上がっていた。

「本当は相手の男なんかどうでもいいんじゃないの?」昌明が言った。それはまるで普通に友達と話をしているような口調だった。
「うん、奥さんを殺しちゃった自分を許せないから・・・だから、こんなことしてるような気がする」孝の口調も普通だった。
「ガキになにがわかる・・・・」
「わかるよ。辛い気持ちとか、そういうの・・・俺たちと同じだよ、そういう気持ちは」まるで、友達の相談にのっているかのように昌明が答える。
「ね、もう、やめようよ、こんなこと。奥さん喜ばないと思うよ?」それを言うことによって犯人を怒らせる可能性なんて、まったく考えずに孝は言った。何かが変わりつつあった。
「ふ・・・ガキに説教されちゃ、俺も終わりだな」そう言って、男は再び銃口をあげた。
「だがな、これで終わらせるわけにはいかないんだよ」
男は銃を握った手で窓の外を指した。そこには黒いトラックが1台止まっていた。そして、そのトラックから数人の男が降りてきた。黒い服で身を固め、ライフルらしき物を持った男達が。

集音マイクのスイッチを入れて、男が話し始めた。
「その物騒な獲物をもった奴らをそれ以上近づけるとえらいことになるぜ」警察は、狙撃手を校庭の外側に退けた。背広の男がハンドマイクでがなり立てた。
「我々は手荒なまねをするつもりはない。君がその子たちを無事に解放すれば、お前の望みを聞いてやる。その子たちの安全が最優先だ」
男はマイクのスイッチを切って、昌明達に話しかけた。
「お前らの身の安全が最優先なんだとよ」そして、男は校庭に面した窓側のカーテンを孝に閉めさせた。外の様子が分かるように、1メートルほどは開いたままにしておく。
「お前ら、二人並んでそこに立て」そういって、彼らをその1メートルほど開いたカーテンの間に外向きに立たせた。
「これで迂闊に撃つことはできないさ。何せ、お前らの身の安全が最優先なんだからな」そして、二人の背後から校庭をのぞき見ようとした瞬間だった。
なにかが頭の横を通った。ガラスの割れる音、焼けるような痛み。孝のこめかみから流れる血。隠れていた狙撃手が、二人の少年の頭の間から犯人が顔をのぞかせた瞬間、発砲したのだった。

男は窓に向かって銃を撃った。そして、血を流して床に倒れている孝を抱きかかえた。孝は激しくショックを受けているようだった。
「あいつら・・・なにが安全が最優先だ!」自分のシャツの袖を破り取って、それで孝のこめかみの傷を押さえた。
「おい、お前、これを押さえてろ。血が止まるまで、ぎゅっと押さえてるんだ」昌明はその言葉通りに孝の傷を押さえた。
「おじさんも、血が出てるよ」
「俺のことなんかどうでもいい。あいつら、お前達がいるのに撃って来やがった」男は集音マイクのスイッチに手をかけた。自分を落ち着かせるように深呼吸した後、スイッチを入れた。
「お前ら、今のでどうなったかわかってんのか? 俺は全然平気だぜ。だがな、ここにいるチビの方が頭から血を流してるのは誰のせいなんだろうな」そして、マイクのスイッチを切って、昌明に尋ねる。
「どうだ、血、止まったか?」
「うん、大丈夫みたい」昌明は傷口をのぞき込む。
「だ、大丈夫・・・ちょっとかすっただけだと思うし」孝もようやくショックが収まったようだった。
男はマイクのスイッチを入れた。
「お前ら、俺の代わりに人質を始末してくれるってのか? そりゃ、警察も人質がいなくなった方が踏み込みやすいだろうからな」
警部がハンドマイクで何か言っていたが、男は聞く耳を持たなかった。
「だまれ! 俺はいま腹を立てている。もしこんなことがもう1回起こったら、そのときは少なくともここにいる二人は死ぬことになる。おぼえとけ!」マイクのスイッチを切って、崩れるように椅子に座り込んだ。

孝は立ち上がると、そんな男の耳の上に、さっき男が当ててくれたシャツの切れ端を押し当てた。
「血、出てるよ」
「ああ、大丈夫だ。たいしたことない」男は振り払おうとした。
「だめだよ、動かないで」そして、男は孝に従った。

「僕ね・・・何回か死のうと思ったんだよ」あれからずっと続いていた沈黙を破るように孝が口を開いた。すでに深夜と呼べる時間だった。教室の照明は消されていた。しかし、警察の投光器の光で、窓際はぼんやりと明るかった。
「誰も僕のこと、助けてくれなかった。殴られてても、蹴られてても、誰も何にもしてくれなかった。先生も知ってたはずなのに・・・なにもしてくれなかった」孝は男の横に並んで、壁に背中を押し当てて座っていた。男の向こう側には、昌明が同じようにして座っていた。
「殴られて血が出ても・・・誰も何もしてくれなかった」彼ら3人は、投光器の光が届かない廊下側の壁際に並んで座っていた。銃は机の上に置いてあった。
「解剖されるのもいやだった。殴られるのもいやだった。命令されるのもいやだった。けど・・・」
男が孝の肩に手を回した。孝は男に体をあずけた。
「けど、誰も僕のこと、見てくれないのが一番いやだった。僕なんかそこにいないみたいに、みんなが僕のこと無視するのが・・・すごくつらかった。だから、この学校でも・・・死のうかと思った」
「孝・・・・・」男が孝の肩を抱き寄せた。
「先輩・・・あのときのこと、覚えてますか?」
「あのときの・・・ことって?」かすれた声で昌明が聞き返した。
「先輩は覚えてないだろうと思ってたけど、いつだったか、僕がどんなふうにいじめられてたのか、あいつら先輩に話したことがあったでしょ?」
「そんなこともあったな」
「あいつら、おもしろそうに笑いながら、僕のほう見てにやにや笑いながらそんな話して・・・そしたら先輩、それがどうしたって言ったよね。そんなことがおもしろいかって言ったよね」
「そうだったかな・・・」
「うん。そしたらあいつらみんなだまっちゃって・・・僕、なんか、そのときすごくうれしかった。僕ね、そのときまで、僕自身がいじめられっ子になってたんだ。みんなにいじめられるだけじゃなくて、僕自身も、僕はいじめられっ子だって思いこんでたんだ」男が立ち上がって銃を取った。そして、また二人の間に座る。
「でもね、先輩がそれがどうしたって言うのを聞いて・・・なんだか、自分でそんなふうに思いこんでたことに・・・っていうか、自分でそういうふうになってたことに気がついたっていうか・・・とにかく、なんかあのときから、世界が違うふうに見えたような・・・うまく言えないんだけど」
「いじめられっ子を卒業できた?」男が尋ねる。
「そう、そういう感じ、そんな感じだったんだ」
男が立ち上がった。銃をチェックする。
「さて、そろそろ終わりにしないとな」そういって、二人の前に立ちはだかった。
「物音・・・してたね」昌明が声をひそめて言った。
「ああ、そこまで来てるだろうよ」そして、男は銃口を孝に向けた。

しばらく何の音もしなかった。そして、布がこすれるような音が、すぐ耳元で聞こえたかと思うくらいに大きく感じられた瞬間、男が叫んだ。
「このガキィィ、死ねぇぇ!!」引き金にかけられた指に力がこもった。


* * * * *


「よく覚えてません」孝は正面に座っている警部に向かって言った。あの背広の男だった。
「あいつは・・・なぜ君を撃とうとしたのかわかるかい?」警部が尋ねた。
「それもよくわかりません」孝はうつむいて小さな声で答えた。
「我々が突入したとき、すでに引き金は引かれていた。犯人は弾がつきていたことを知らなかったんだろうな、おかげで君は無事に助け出された。奇跡というべきだよ」
「そう・・・思います」
「じゃ、今日はここまでにしよう。なにか思い出したら、私たちに教えてくれないか?」
「はい、そうします」孝は両親とともに席を立った。


* * * * *


「あの人・・・自殺したのかな」
「やめたかったんじゃないかな、もう」
「そうだね・・・きっと。でも、もうやめられなかったから、あんなふうに終わりにしたんだろうね」
二人で並んで家に向かって歩いていた。あれから数ヶ月、警察からの事情聴取も終わり、ようやく二人にかつてのような日常が戻りつつあった。
警官が突入したとき、男は引き金を引いていた。そして、その場で男は射殺された。
「弾が入ってないこと、知ってたんだよね」
「たぶんね。あの人は、お前を殺す気なんか絶対なかったと思う。あの人は・・・俺達と同じだったんだと思う」あの夜、あの教室で3人で話したことは、ほとんど警察には言わなかった。今となっては二人だけの秘密だった。

「俺達、今までみたいに親友でいられるのかな」昌明が不安げに尋ねた。
「なんで?」
「だって、俺・・・」消え入りそうな小さな声だった。
「僕のこと分かってくれるのは先輩だけだし、先輩のこと分かるのも僕だけでしょ?」
「まぁ、そうだけど・・・」
孝は少し足を早めて昌明の前に出た。そして、くるっと振り返って、昌明の前を後ろ向きに歩きながら言った。
「じゃ、いままで通りでいいですよね、先輩?」
「おう」孝に見つめられながら、昌明は照れくさそうに答えた。

「よかったのかな・・・あんな終わり方で・・・」孝が立ち止まって小さな声で言った。
「たぶん・・・あの人はあれでいいと思ったんじゃないかな」
「そうだよね・・・」少し残念そうに、孝が言った。
「きっと・・・そうだよね」孝は自分を納得させるかのように繰り返した。昌明はなにも言わず、孝の肩に腕を回した。そのまま、二人は歩き続けた。
夕日に照らし出された二人のシルエットは、長くのびて、やがて一つになっていた。
<完>


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