なぞのむぅ大陸
10万Hit記念作品
僕に帰る家なんてない。あそこは家じゃない。あの人たちは家族じゃない。でも、僕はあそこに帰るしかない。あそこで、お父さんとお母さん・・・だった人と、なるべく会わないようにして、じっと息を潜めているしかない。毎日毎日同じことばかり考えている。そう思わなくちゃいけないんだ。僕は、そういうふうに思うしかないんだって。でも、本当は違う。前はよかった。前は幸せだった。どうしたら、前みたいに楽しく暮らせるのか、どうしたら、前みたいに僕を息子として見てくれるのか、心の奥ではずっとそう考えている。でもどうしたらいいのかわからなかった。武広が憎い、と思う。いや、それも違う。そう思いこもうとしているだけ。かわいい。僕の弟・・・でも、そう言ったらお父さんに殴られる。僕は家族じゃない。僕は息子じゃない。僕は人間じゃない。僕はクローン・・・ もう少ししたら、家に帰らなきゃならない。僕があの家にいるためにやらなきゃならないことがたくさんある。それができなかったら、僕はあの家に置いてもらえない。たぶん・・・ ずっと、ここでこうして一人でいたい。誰にも見られずに、誰とも話さずに、こうして考えていたい。でも、それも違う。全部違う。僕は・・・僕はただ前みたいに、家族でいたいだけなのに。前はそれが出来ていたのに、今はそれが出来ないから・・・ |
結婚してから8年、何度も試してみた、病院に行ってみたりもした。宗教に頼ったこともある。だが、私たち夫婦には子供が授からなかった。妻とは何度か口論にもなった。離婚寸前までいったことも2回あった。しかし、それでもなんとか持ちこたえて、私たちは一緒に努力を続けた。別にどちらかに原因がある、ということではないようだった。医者の話では、私たちは二人とも、特に異常はないということだった。私たちのような夫婦はかなり増えてきているらしい。特に理由もなく、子供が出来ない夫婦が。 しかし、ということは、不可能じゃないという希望を持つことができた。私たちはそれからも努力を重ねた。しかし、丸8年・・・ついに私たちは、あきらめにも似た気持ちで違う道を探るようになった。 養子をもらおう、と思ったこともある。いくつかの施設を回ってみた。この子なら、と思う子もいないでもなかった。しかし、今の世の中、養子縁組をするためには、安定した高収入や家庭環境といった条件をクリアしなければならなかった。収入は、一応人並み、いや、人並み以上の自信はある。しかし、家庭環境の面で私たちはOKとならなかった。過去の2度の離婚の危機。そのとき公的機関に中に入ってもらったことが、結果的に仇になって、「安定した家庭環境」とは認めてもらえなかった。子供が欲しいが故の口論から発展した離婚の危機。それが原因で養子をもらうことができないなんて・・・皮肉な運命だと思った。 そして、それが原因で3度目の離婚の危機。しかし、私たちも疲れ果てていた。今度は公的機関には入ってもらわなかったが、時間が解決してくれた。 もう、一生私たちの夢はかなわない、二人そろってそうあきらめかけていたところに、子供が発売されることを知った。いや、正確に言うと、人間の複製の子供、というべきか。クローン。 しかし、複製であろうが、それは私たちにとって希望の光となった。購入には多少の条件はあったが、養子縁組に比べるとはるかに低いハードルだった。私たちはそれを楽々クリアできた。クローンの価格は決して安いものではなかった。むしろ、一生に数回あるかないかの決断を必要とするような金額だった。しかし、私たちは決断した。そして、2005年4月1日、発売と同時に、私たちは購入手続きをとった。 |
お父さんとお母さんは武広を連れて旅行に行った。僕は一人、家に残された。「家族水入らずの旅行だから」お母さんは僕の前で、何度もそう言った。「ここにいると、家族でゆっくりできないから」って。消えてしまいたい、と思った。お父さんとお母さんが僕を邪魔者扱いしてるのは知っている。だから、僕が邪魔ならはっきりそう言って欲しい。でも、お父さんもお母さんもそれは言わなかった。はっきり言われた方が楽になれる気がするけど・・・だけど、そう言われるのが怖い。きっと、はっきり言われたら僕は生きていけないだろう。だから、僕はなにも言わなかった。ただうつむいていた。やがて、お母さんは武広を抱いて、旅行に着ていく服を買いに出かけていった。 お父さんとお母さんと武広がいない間に、僕にはたくさんすることがあった。掃除や洗濯はいつものことだけど、庭の草むしり、車を洗う、家の回りの溝を掃除する、そのほかいろいろ。 それでもよかった。この家にいられるのなら。僕は言いつけられたことをやりながら、この家で楽しかったことを思い出していた。あのころに戻れたらいいんだけどな。 |
初めて家に連れてこられたあれを見たとき、普通の人間じゃないか、と思った。当たり前だが。べつにクローンだから、顔が緑色なんてことはない。外観も中身も全く普通だった。だた、あれは神ではなく、人に造られた、という違いだけで。 ここに連れてこられる前にあれがどのようなところにいたのかは知らない。だが、私たちに引き渡す前に、過去の記憶は封印した、とのことだった。だから、あれは本当に私たちの息子として育てることができる、と。 夫婦二人だけの生活から、急に5才の息子が出来たわけで、最初は大変だった。急に子供が出来たことで近所におかしなことを言われないように、引っ越しまでした。職場には、「親戚の子供を引き取った」と嘘をついた。しかし、息子のいる生活は、我々に”張り”を与えてくれた。家に帰れば息子が待っている。遅くなったときにも、息子の寝顔を見れば、疲れも癒された。「買ってよかった」私たち夫婦は心からそう思った。 クローンの子供を購入する条件の一つとして、定期的に簡単なレポートを提出する、ということがあった。身長や体重、性格の変化、体の変化といったようなことや、私たち購入者の意見を書いて提出する、というものだった。私たちは、「クローンの子供が私たちのような夫婦にとって、どれほど心を満たしてくれたか」をそのレポートに書きつづった。その時期が来る度に、私たちはレポートにそのようなことを記入した。幸せだった。ほんとうに、幸せだと思っていた。 |
小さい頃、お父さんとお母さんは僕をかわいがってくれた。お父さんは日曜日が来るたびに僕と遊んでくれた。仕事から帰ると、お父さんの帰りをついつい眠くて閉じてしまいそうになる目をこすりながら起きて待っていた僕をだっこしてくれて、僕をベッドに運んでくれた。僕はお父さんにだっこされて、お父さんのにおいをかぎながら、ベッドに着くまでに眠ってしまう、そんな日々だった。 お母さんは僕に本を読んでくれた。僕の名前の書き方を教えてくれた。お母さんと一緒にお買い物に行く。スーパーの袋を僕が一つ持つ。そのかわり、お母さんは僕が好きなお菓子を買ってくれる。それが楽しみで、家に着くとすぐに袋をキッチンにおいて、テレビの前に座り込んでお菓子を食べたっけ。 ベッドルームを掃除しながら、リビングルームを片づけながら、そんなことを思い出していた。幸せだったあの頃。あの幸せが失われるなんて、思いもしなかったあの頃・・・ |
妻が体調の変化を訴えたのは、たまたま私が出張しているときだった。妻には電話で病院に行くようにいっておいた。そして出張から帰ってきたときにその知らせを聞いた。”妊娠”・・・夢にも思わなかった。あれだけそれを願っても出来なかったことが、今・・・ 本当に幸せだと思った。息子がいる。そして、もう一つ命が生まれようとしている。これほどの幸せが世の中にあるのだろうか、そう思った。 妻とはいろいろと話し合った。お腹の中にいる子が、私たちと血のつながった本当の息子であることは確かだった。しかし、私たちは家族だと、あの子も含めて家族なんだということを再確認した。むしろ、あの子がいてくれたからこそ、今まで幸せに暮らして来られたこと、そして、ひょっとしたら、あの子が私たちを満たしてくれていたからこそ、今までどれだけ努力しても出来なかった子供が出来たのではないか、と。私たちは、4人で家族として生きていくことを決心した。少なくとも、そのときはそう決心したはずだった。 |
お母さんのお腹が少しずつ大きくなっていた。僕は、よくそのお腹に手を当ててみた。お母さんは「あなたの弟よ」と楽しそうに言っていたっけ。僕は弟が生まれてくるのが本当に楽しみだった。よく、「いつ生まれるの?」って聞いていたっけ。 そして、ついに武広が生まれた。お父さんもお母さんもうれしそうだった。僕もうれしかった。しばらくたって、初めてだっこさせてもらって、弟なんだって実感して。これから、もっと幸せになれるんだって思ったっけ。なんにもわかっていなかったな、あの頃は。僕も、お父さんも、お母さんも。 |
すでに妊娠中に男の子だということは分かっていたので、名前は「武広」と決めていた。武広は妻によく似た元気な子だった。あんな大きな産声を聞いたのは初めてだと看護婦さんの間で評判になったほどだった。私は誇らしく思った。もっと元気に、もっとたくましく、そして、やさしい子に育って欲しい、親としての願いだった。そして気がついた。あの子が家に来た時には・・・こういう思いはなかったことに。 生まれて数ヶ月で、武広はますます母親に似ていった。しかし、時には父親似だと言われることもあった。親馬鹿なんだろうが・・・そう言われると照れくさくはあったが、素直にうれしかった。血のつながり・・・それを感じた。その重さを感じた。そして血のつながっていない息子について・・・それは考えまいと思った。妻との会話のなかでも、それはいつのまにかタブーになっていた。しかし、口には出さないものの、血がつながっていない事実がじわりじわりと大きくなっていった。 |
ベビーベッドで眠っている武広のそばにいるのが好きだった。武広の寝顔を見て、頬をちょっとさわってみて、小さな小さな手をさわってみる。武広が手を開いて僕の人差し指をぎゅっと握る。僕の弟。本当に大好きだった、武広のことが。 でも、僕の不注意で、武広が怪我をした。ベッドで泣いていた武広をだっこして、ベランダで洗濯物を干しているお母さんのところに連れていってあげようとして・・・2階へ上がる階段から足を踏み外した。僕と武広は階段から転がり落ちた。たった3段だけだったんだけど・・・僕はとっさに武広をぎゅっと抱きしめてかばったんだけど、でも、武広は腕をどこかにぶつけたらしく、激しく泣き出した。 |
すぐに武広を車に乗せて病院に運んだ。右腕の捻挫。それほど大したことはないということだったが・・・私たち夫婦にとって、なにものにも代え難い、大切なものを傷付けられたように感じた。家に一人置いてきたあの子・・・あれに幾ばくかの怒りを感じた。血のつながってないあれが、私たちの大事な息子を傷つけた。やはり、血がつながっていないから、あいつは、あれはあんなことを・・・ そんなことはない、とは思った。あれにとっても弟はかわいい、というのはよくわかっていた。でも、どうしても心のなかに押さえられないものがあった。 そしてその夜、妻と話し合った。 なんとか今まで通り暮らしていこう、という結論に達した。 |
武広にはほんとに悪いことをしたと思っている。でも、僕だって武広を傷つけようなんて思った訳じゃない。それに、僕だって怪我をした。腕をすりむいただけだけど、でも、結構血は出ていた。それなのに、お父さんもお母さんも僕には見向きもしなかった。武広を抱いてすぐに二人で病院に行った。僕のことなんかぜんぜん気にせずに。 そりゃ、僕も、僕のことなんかより武広の方が心配だし、すぐに武広を病院に連れていってあげて欲しいとは思う。でも・・・まるで僕なんか居ないように武広のことだけ心配して、そして帰ってきてからもなにも言ってくれずに、どうだったか訊ねた僕に「うるさい」って言っただけで・・・ なにかが壊れた、と思った。 前から、僕とお父さん、お母さんの間のなにかが少しだけ変わってきているとは思っていた。武広が生まれて、なにかが少し変わった。そのときは気のせいだと思っていた。でも、今それがはっきりと分かった。 ”僕は邪魔者なんだ”血がつながっていない僕は、もうお父さんとお母さんの子供じゃないんだ。お父さんとお母さんの子供は武広だけなんだ。僕は・・・もうだめだと思った。 |
あのことがあって以来、どうしてもあれを息子とは思えなくなった。あれが武広のそばにいるのを見ると不安を感じるようになった。あれが武広を抱き上げようとしたのを私はあわてて止めた。私はあれを突き飛ばした。あれは後ろに倒れざまに椅子の角に頭を打ち付けた。私は少し焦った。後頭部から血を流すあれを何とかしようと救急箱をもって床に倒れているあれのそばにひざまづいた。傷を見ようと後頭部の髪の毛をかき分けた。しかし、そこには数字とアルファベットが刻まれていた。私は倒れたあれをそのままにして、武広を抱き上げて別の部屋に行った。 あれは・・・そう、人間じゃないんだ・・・ 私の中の何かを、今まで押さえ込んでいた栓が一気にはじけ飛んだ。 |
お父さんに突き飛ばされた。そのときのお父さんの顔は忘れられなかった。怖かった。そして、お父さんも僕を怖いと感じていた。そう、まるで何か恐ろしいものから必死で大事なものを守ろうとしているような表情、そして、その恐ろしい物は・・・僕。 そして、その瞬間・・・僕はお父さんに殺される、と思った。そして僕は気を失った。 それ以来、あの家に僕の居場所はなくなった。 僕の家族ではなくなった。いや、僕が家族じゃなくなったんだ。 そして、僕は初めてここに来た。家から少し離れたビルの屋上。別にどこでもよかった。一人になりたかった。誰にもじゃまされずに、一人で考えたかった。 なにも考えずに階段を上がって屋上に出る扉を開いた。鍵はかかっていなかった。誰もいないビルの屋上で、僕はフェンスに近づいた。初めはそこから街を見下ろしていた。やがて僕はゆっくりとフェンスを乗り越えて、ビルの屋上の端っこに座った。足をぶらぶらさせてみた。足の下に小さな車や人が行き交っていた。このまま少しお尻をずらしたら、僕は楽になれるのかな、そう思った。そう思ったけど・・・しばらくそうして座っていたけど、僕はまた立ち上がって、フェンスを乗り越え、階段をおりた。あの家に戻るために。 |
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時間をかけて、私たち夫婦は何度も話し合った。武広が生まれてからというもの、あれには愛情を感じなくなったのは事実だった。そもそもあれは人間の複製だ。そんなものを息子としてかわいがってきたことが・・・今となっては信じられなかった。その思いは武広が成長するにつれて大きくなっていく。武広があれを兄と呼ぶようになったらどうしよう、武広があれがクローンだと知ったらどうしよう、いや、その前に、武広がクローンの弟だなどと世間から言われたら・・・私たちが犯した過ち・・・クローンを我が子として育てようとしたこと・・・今となっては恥ずかしいとすら思った。それは妻も同じ、いや、むしろ妻の方がその気持ちは大きいようだった。自分の腹を痛めた子と、誰だか分からない人間の複製。比べるまでもないことだ。 武広のためにも、あれをなんとかしたい。そう思い続けていた。間違っても武広にあれを兄だなどと思って欲しくない。武広は私たちのたった一人の息子だから、たった一人の私たちの血を引く息子だから。 |
僕がお父さんとお母さんの本当の息子じゃないことはよくわかっている。でも、前はあんなに僕のことを大事にしてくれた。僕を愛してくれた。あのときの気持ちは本物だったと思う。だから、今もきっとあんな風に戻ることは出来るはずだとずっと思っている。武広と4人で、家族として一緒に幸せに暮らすことは絶対に出来ると思う。そのためには僕は何だってしたいと思っている。きっと、お父さんもお母さんもそのうち分かってくれると信じている。ただ、今は武広が生まれたから、ずっと出来なかった子供が出来たから、少し僕のことを忘れてしまっているだけだと思っている。きっと、きっといつか、あのときみたいに仲良く暮らせる、そう信じて僕はがんばる。がんばらなきゃいけないんだ・・・・・ |
法律では、クローンを譲渡することは禁止されていた。もちろん、殺してしまうこともできなかった。複製とはいえ、生き物だから、まがい物とはいえ、命らしきものがあるから。それは私たちも分かっている。犬や猫を喜んで殺したがるような人がいないのと同じだ。しかし・・・あれは私たちの息子ではないのだ。紛れもなく、あれは違う。そんなものと、今までと同じように暮らしていくことを想像すると虫酸が走る。あれのために時間を費やし、金を費やす。そんなものがあるのなら、武広のために使ってやりたかった。武広こそが私たちの唯一の息子なのだから。 しかし、あれを買った以上、他に譲ることも殺すこともできない。なんてものを買ってしまったんだろう、後悔の念が絶えない。どこかに捨ててくることも考えたが、あれの後頭部には製造番号が刻まれている。それを消すことは出来ないし、万一それを削り取ってあれをどこかに捨てて来たとしても、あれが見つかってしまうと我々は犯罪者となってしまう。あれは邪魔だが、私たちが犯罪者になってしまったら武広の将来に大きな影響を与えてしまう。あんなもののためにそうなるのは許せない。どうするべきなのか・・・時間がある度に、私たち夫婦はそのことについて話し合っていた。しかし、いつも結論は出なかった。 |
僕はお父さんとお母さんの言いつけを一生懸命守った。お父さんとお母さんの役に立って、また僕のことを息子だと思ってもらえるように。でも、お父さんやお母さんとは話はしなかった。お父さんとお母さんは僕に言いつけるだけ。それでもよかった。それ以上話をしたら、きっと僕は傷付くから。だから、必要なことだけ言いつけられて、あとはなにも言わないか、顔をあわさないようにしているほうがよかった。それでいつか僕のことを息子と認めてもらえるとは思えないけど、でも、嫌われるよりは、役に立たないと思われるよりはましだった。この家のなかに、ほんの少しでも僕の居場所がある、そう思うことで、僕は何とかまだここにいることができた。ここに・・・この家に。 |
殺すことも考えた。この手で殺して、庭かどこかの森の中にでも埋めてしまおうか、そう考えたこともあった。しかし、それも出来ない話だった。あれについて、半年に一度、政府から調査が行われる。クローンの生育過程を確認する調査が。そして、購入したクローンに身体的、あるいはその他の異常があった場合はすぐに政府に連絡しなければならない。自分であれを殺して、政府に連絡してごまかし通すなど、私たちにはできないであろうことは容易に想像できた。そして、そのことが発覚したときに、武広の将来がめちゃくちゃになってしまうと考えると、どうしてもふみきれなかった。おそらくあれが死んだり、行方不明になったら、真っ先に私たちが疑われる。わざわざ危険に身をさらすことになる。じゃあ、どうすれば良いのか・・・事故にでもあってくれれば、どれほど楽か・・・私たちに疑いがかかりようもないような事故で死んでしまえば、どれほどこの重苦しい気持ちから解放されるか・・・しかし、そう都合よく事故は起こらなかった。新聞では毎日なにかしら、死亡事故が報じられているというのに・・・それを望む私たちにはそれは起こらなかった。 |
毎日、僕がどんなふうに思っているか、それをお父さんとお母さんに伝えようと思ったこともあった。でも、きっと逆効果なんだろうなって思って・・・言えなかった。毎日毎日、お父さんとお母さんは僕に辛くあたった。だから、なるべく顔をあわさずに、言いつけられたことだけはちゃんとこなして、あとは部屋に閉じこもるようにしていた。でも、ときどきどうしようもなく寂しくなるときがあった。そんなときは、そっと僕の部屋から出て、武広のベビーベッドが置いてある部屋をのぞきに行っていた。ほとんどの場合、お母さんがそばにいるけど、ときどきだれもいないことがあった。そんなときは、武広のベッドのそばまで行って、武広の手を触った。武広は僕を見ると笑ってくれる。お父さんとお母さんは絶対に僕に向かって笑ってくれないけど、武広だけは笑ってくれる。そして、小さな手で僕の人差し指をぎゅっと握る。僕がこの家で唯一家族を感じる瞬間だった。そういうときはすごくうれしかった。でも、僕はすぐに武広のベッドから離れた。僕が武広と一緒にいるところが見つかったら、激しく怒られるから。お父さんもお母さんも、僕が武広に近づくことさえいやがるのを知っているから。 でも・・・ほんの一瞬だけど、武広の笑顔が僕を支えてくれていた。いつかきっと・・・またみんなであんな風に笑顔でいられる日がきっとくることを信じさせてくれる笑顔だった。 |
私たちには政府からいろいろな資料が送られてくる。アンケートだったり、状況の調査票だったり。そして、時々、私たちクローンを購入した家庭向けの機関誌のようなものも送られてくる。しかし、あまり明るい内容の機関誌ではなかった。クローンの死亡率であるとか、死亡原因といったものの統計もたまに載っていた。クローンの死亡は最新の機関誌によると、全部で26件あった。その原因のほとんどは事故や病死であったが、中には、我々と同じような動機で購入し、同じような苦しみを抱えている家庭もあるようで、「所有者による殺害」という理由もあった。そして、嫌なことに、そのページにはわざわざ「クローンを正当な理由もなく殺害」したらどうなるのかについて、囲み記事が記載されている。簡単に言えば、殺人とほぼ同じ、ということになる。クローンは人ではない。しかしながら、政府の貴重な実験素材であるクローンを傷つけ、その生命を損なうことは、ほぼそれに値する、というわけである。 いつからか、私たちはこの機関誌を読まなくなった。読んでも気が滅入るだけだったから・・・ |
ときどき、お父さんもお母さんもいなくて、しばらく戻る気配がないときがある。ほとんどの場合、武広もいないんだけど、ごくたまに武広をベッドに置いたままってときがある。たぶん、隣にちょっとした用事ですぐに帰るつもりで出かけて、話し込んじゃってたりするんだろうけど。そういうときは、どきどきしながら武広をだっこする。武広は、僕の腕のなかで、僕の胸に顔を押しつけてくる。僕の弟・・・そう呼べたらどんなに幸せだろう。一人ベッドのなかでぐずっていても、僕が抱き上げると泣きやんで、僕に体を押しつけてくる武広。いとおしい、と思った。でも、涙が出てくる。こんなに武広は僕のことを好きでいてくれるのに・・・なぜ、お父さんとお母さんは・・・ 僕と血がつながっていないから? 僕が本当の子じゃないから? 僕が・・・クローンだから? |
武広が初めて、意味のある言葉をしゃべった。私には「なぁな」と聞こえた。妻にはそれが母親である自分を呼んでいるように聞こえたという。親の欲目、というか、私たちが勝手に解釈しているだけなのかもしれない。それでも、武広が初めてしゃべったというのはうれしかった。それから数日後には私のことを「だぁだ」と呼んだ。親馬鹿、とはこのことだろうか。私は武広が自分を呼んだということを、近所中にふれて回りたい気分だった。しかし、そんな幸せな気分は長くは続かなかった。このまま行けば、いずれはあれのことまで呼ぶようになるんじゃないか・・・そう思うと私の心のなかに焦燥感が広がった。武広は少しずつ知恵を付けてきている。この子があれを家族と認識してしまう前になんとかしないと・・・ |
急に、僕は家から追い出された。追い出されて、庭にある物置に閉じこめられた。窓も電気もない物置に放り込まれて、外から鍵がかけられた。なんにも悪いことしていないのに、言われたことはちゃんとしてるのに・・・理由は教えてくれなかった。僕はそこから出ることも出来なくなった。武広の小さな手と握手することも、だっこすることもできなくなった。やっぱり、あの頃には戻れないのかな・・・悲しかった。 |
会社の帰りに数冊の本を買ってきた。妻と二人でそれを読みあさった。それこそすみからすみまで。全部、クローン基本法やクローン飼育に関する本だった。あれを合法的に抹殺する方法、あるいは、合法的に私たちの目の前から消えてもらう方法を探した。しかし、それらの本を読めば読むほど、私たちにはほとんど手段がないことがわかった。クローンである「あれ」を抹殺したら、真っ先に疑われるのは私たち所有者である。うかつな手段は選べなかった。毎日毎日頭を抱える日が続いた。 |
食事の時だけ、物置の扉の鍵がはずされて、お母さんがトレイを入り口においてくれた。僕がそれを受け取ると、お母さんは再び扉を閉めて、鍵をかける。物置の壁や天井から漏れてくる光の中で、僕はそのトレイに盛られたご飯を食べた。お箸なんてないから、手づかみで。雨の日には雨漏りのなかで食べた。雨の滴がトレイに盛られた食べ物に落ちる。でも、僕はそれを食べた。残したりしたら、食事すらもらえなくなるんじゃないか、そんなふうに思えたから。僕は食事のとき以外は物置の床に横になっていた。初めはそんな場所はなかったんだけど、少しずつ置いてある物を動かして、なんとか横になれる場所を作った。でも、手足を縮めないと横にはなれなかった。体を伸ばすには、この物置は小さすぎた。外に出たい、お母さんが食事を運んできて扉を開けたときに、外のまぶしい光に顔をしかめながら、僕はそう思った。 |
合法、非合法を問わず、私たちはあれを処分する方法を紙に列記してみた。まずは「殺す」。これは、私たちの手で殺すやり方、餓死といったような自然に死に至らしめる方法、あるいは自分で自分を殺す、要するに自殺といった方法が考えられる。あるいは、病死に至らしめるとか、事故死というのもこの方法の一つ。次の方法が、どこか、たとえば富士の樹海のようなところに置いてくるというやり方。そしてもう一つが、あれに犯罪を犯させる、という方法。自らの意志により犯罪を犯したクローンについては、所有者はそのクローンの所有権を放棄できる、と法律で定められていた。これらの方法のなかで、私たちがあれに対してやれること・・・毎夜、私と妻は相談していた。 |
物置に閉じこめられて悪いことばかりかというと、そうでもない。たったひとつだけど、良いこともある。お母さんが洗濯物を干すときに、武広を庭に面した窓のところに寝かせておくんだけど、ここからだと扉のすきまから武広の姿が見える。最近はうつぶせになったまま、手を突っ張って頭を上げて辺りを見回してる。そんな武広の様子が見える。これはうれしかった。そして、なぜか僕が閉じこめられている物置のほうを見て、笑うんだ。まるで僕がそこにいて、武広を見つめていることに気付いているみたいに。だっこしてあげられないけど、手を握ってあげられないけど・・・でもうれしい。それがここでの楽しみ。たったひとつだけど・・・・・ |
急に政府が調査に来ることになった。あれをあそこから出さないと・・・あんなところに閉じこめておいたのがばれるとやっかいなことになるかもしれない。調査員によけいなことを言わないようにさせないと。全く・・・殺すことも出来ない、売ることもやることもできない、閉じこめておくこともできない・・・やっかいなものだ。あれが消えてくれたらどんなにうれしいやら・・・ |
政府の人が調査にくるから、よけいなことを言わない代わりに一つだけ望みを叶えてもらえることになった。僕の望みは前みたいに仲良く暮らすことだけど、そんなこと無理だってことくらい僕にも分かってた。だから、武広をだっこさせてもらった。だっこして、公園に散歩に行かせてもらった。前にだっこしたときより、だいぶ重くなっていた。僕がだっこしようとすると、僕に向かって手を出してくれた。うれしかった。よくわかんないけどいろんなことを言ってた。にぃにぃとか、だぁだぁとか・・・ ここ数ヶ月の間で、こんなに幸せだったことはなかった。 家に帰って、お父さんに素直にありがとうって言った。お前にお父さんなんて呼ばれたくないって言われた。約束を忘れるなって言われた。僕だって、馬鹿じゃない。約束は守る。 |
政府の役人が来た。あれに聞き取り調査をしに。正直ひやひやものだったが、あれはうまく応対していた。あれの答えだけを聞いていれば、きっと役人にとっては、あれはここで幸せに暮らせていると感じるだろう。しかし、あれは自分の役目と言って、武広を抱いて散歩に出て行きやがった。役人も一緒に。くそ!もう二度とあれと武広を接触させないようにしないと。 |
いろいろ聞かれたけど、うまく答えられたと思う。お父さんもほっとしているようだった。だから・・・少しくらいいいかな、と思って武広と毎日散歩に行くのが僕の役目、なんて言ってみた。そしたら、役人が一緒に散歩に行こうって言って、僕はまた武広をだっこして公園に散歩に行った。またこうして武広をだっこできるなんて・・・夢みたいだった。 武広は、僕にぎゅっとしがみついて来た。なんだかうれしい。あの家で幸せかどうか聞かれたけど、少なくともこうして武広をだっこしていられるのは幸せだと思ったから、今は幸せって答えた。武広がいろいろ話してる。どうやら、にぃにぃは僕のことみたい。お兄ちゃんってことなのかな、なんだかすごくうれしい。すごく幸せ。 |
役人が帰ったあと、あれの体にたたきこんだ。二度と勝手なまねは許さないと。 |
お父さんに殴られた。わかっていたけど。あんなことしたんだから、武広を散歩に連れ出したんだから。殴られるのは平気。体の痛みはじきに直る。でも・・・お父さんは僕の心を殴った。言葉で僕の心をずたずたにした。ついにはっきりと言われた。お前は邪魔者だって。お前がこの家にいなければどれほど幸せだろうって。そして、武広の兄がクローンだなんて知れたらあの子の未来は台無しだって。お前なんかを買ったことを後悔しているって。 さんざん殴って、さんざん僕をなじって、そしてお父さんは床に大の字になって倒れている僕の脇腹を思いっきり蹴飛ばしていった。僕は動けなかった。別に体は大したことじゃない。それよりも、いろいろ言われたことがショックだった。わかっていたけど。でも、お父さんから憎悪と殺意を感じた。本当に、言葉で殺されると思った。っていうか・・・僕の心はもう・・・死んだも同然だった。 のろのろと体をおこして、階段を登って自分の部屋に戻った。そして、泣いた。 |
調査が終わってから3週間、あれはほとんど自分の部屋から出てこなかった。私や妻とは全く顔を会わさなかった。もっとも、私にしても、あれの顔を見たくはなかったが。 3週間ほどたって、あれが私の前に立った。殴った時の傷や腫れはすっかり直っていた。あれは私に紙を手渡して、そして部屋に戻っていった。 |
僕は、自分の気持ちを手紙にした。最後の賭だと思った。昔の幸せだったころのこと、お父さんとお母さんと一緒にいて、どんなに僕が幸せだったかを書きつづった。そして、武広のこと。大好きな武広のこと、武広を傷つけてしまってどんなに後悔したか。今の自分のこと。お父さんやお母さんに嫌われていること、自分はクローンで、本当の息子じゃないし、その上、お父さんとお母さんの大切な武広を傷つけちゃったんだから嫌われても仕方がないってこと。でも、また前みたいに4人で家族として暮らしたいってこと、そのためには何でもする、どんなことでもするってこと・・・ お父さんの前に行く。でも、顔を見る勇気がなかった。うつむいたまま、手紙を差し出した。お父さんは受け取ってくれた。そのまま僕は部屋に戻った。きっと、お父さんも分かってくれるだろうって思った。いや、そう望んだ。心の底から、そうなって欲しいと望んだ。 |
その紙は手紙だった。あれの思いが書き連ねてあった。昔のこと、今のこと・・・私たちにとって、思い出したくないことが書かれていた。今となっては消し去りたい過去が書かれていた。そして、あの頃に戻りたいと、そのためならなんでもすると書かれていた。私の手がふるえた。まだこいつはこんなことを・・・思わずペンを取り上げその紙に書き殴った。そしてそれを丸めてゴミ箱に投げ捨てた。 |
そっと、部屋を出た。みんな寝静まっている時間だったから、顔をあわせる心配はないとは思ったけど、辺りを伺いながら僕は階下に降りていった。きっと、お父さんがあの手紙に対して、返事をくれると思っていた。数日待ってみようと思ってたけど、どうしても気になって、ひょっとして、リビングのテーブルにメモでも置いてくれてるんじゃないかとか思って見に行ってみた。 もちろん、なにもなかった。期待しちゃだめだ、とは思ってたけど、やっぱり・・・悲しかった。 そして、気が付いた。ゴミ箱にそれが入っているのに。僕が一生懸命書いた手紙が、くしゃくしゃに丸められてゴミ箱に入っているのに・・・ |
あれが起きてきたのは気配でわかった。リビングでなにかしているのも。そして、かさかさと紙を広げる音がした。あの手紙を見つけたんだと思った。そして、家からあれが出ていった。私はそっと布団から抜け出してリビングに行った。テーブルの上にあの手紙が置いてあった。丸めて捨てたのを、丁寧に広げてあった。灰皿とマッチを引き寄せ、私はその手紙に火をつけた。 |
僕は座っていた。足をぶらぶらさせて。パジャマ代わりのTシャツと短パンでは、少し寒いと感じた。 足の下には誰もいない。こんな夜中には誰もいなかった。このビルの屋上に何回くらい来たかな、そんなことを思っていた。ここにこうやって座って足をぶらぶらさせて・・・何回くらい、こうやって考えたかな・・・10回とか20回じゃないよな・・・それも、今日で終わりだよな。 僕はお尻を少しずらした。体が宙に舞った。 |
灰皿の中の紙を完全に燃やすのには、マッチ3本が必要だった。今は炭となった手紙をこなごなにして、それをキッチンに流した。灰皿の水滴を拭い、いつもの場所に戻す。そして、私はまた布団に戻った。 |
ゆっくりと体が落ちていく。目の前をビルの窓が通り過ぎる。暗くて中はわからない。たしか、このビルは14階建てだから、あと13回くらいこうやって窓をのぞき込むことになるのかな・・・すべてがゆっくりと進んでいた。 ゆっくりと落ちながら、僕はさっきのことを思い返した。手紙をゴミ箱から拾いあげ、ゆっくりと広げてしわを伸ばした。そして、そこに書かれた文字を見た。紙いっぱいに、大きな文字が2つだけ書かれていた。僕はその通りにした。もう、そうするしかないと思った。それしか楽になれる方法はないって。お父さんが僕にそれを望んでいるなら・・・それしかない。「死ね」って望むのなら・・・ そして、地面が目の前に迫ってきた。僕の足が地面にふれた。腰のところから変に体が折れ曲がった。頭が地面にたたきつけられる。そして、僕の体は動かなくなった。しばらく夜空を見上げていたけど・・・やがてなにも見えなくなった。 |
あれが消えてから2ヶ月後、クローンの譲渡が可能となった。法改正の話はだいぶ前にクローン購入者用の機関誌に載っていたそうだが、私たちはあれを読まなくなっていたから気が付かなかった。あと数ヶ月我慢すれば、あれを合法的に手放すことができたということか・・・ま、今となってはどうでもいいことだが。 あれの死亡は事故として処理された。直前の政府の調査であれは私たちと幸せに暮らしていると言っていたとの証言があったため、自殺ではなく、なんらかの事故だったとの報告がなされた。 そして、今、私たち家族3人は幸せに暮らしている。親子水入らずで、誰にも邪魔されずに。 |
<episode 1 完> |