少年は鍵を鍵穴に差し込んだ。
いつもと同じ日常、いつもと同じように学校から帰る。誰もいない筈の家の鍵を開ける。
「あれ?」
鍵が掛かっていない。少年は今朝のことを思い返す。いつものように学生服を着て、いつもの靴を履いて、カバンを持って家を出る。そして、いつも通り鍵を掛けた筈だ。
(だとしたら)
少年はドアを開く。玄関に靴がある。黒い革靴だ。
「ただいま。お父さん帰ってるの?」
すると、家の奥から少年の父親が現れた。
「今日は早いんだね、お父さん」
そう言いながら父親の横をすり抜け、自分の部屋に行こうとした。が、腕を掴まれる。
「これから一緒に行くところがある」
その父親の態度に、何か普段と違うものを感じる。
「どう・・・したの、お父さん」
「いいから、行くぞ」
少し強引に引っ張ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
少年は父親の手を振り払った。
「カバンくらい置かせてよ。それから着替えも」
「着替えなくていい。早く置いて来なさい」
「はぁい」
そして少年は自分の部屋に入った。いつものようにカバンを机の横に置き、そのまま父親の元に戻る。
「どこに行くの?」
父親は少年を見なかった。
「行くぞ」
車の鍵を握り、少年の腕を引いた。
少年が車の助手席に乗り込むとすぐ、父親は車を発進させた。
「ねえ、どこに行くのさ」
父親と車で出掛けるなんていつぶりだろう、そんなことを何となく考える。
「お前は知らなくてもいい」
父親はぶっきらぼうに答える。
(一緒に行くのに、知らなくていいって・・・)
少年は少し不機嫌になり、黙り込んだ。
二人が乗った車内は、なんの会話もないまま、時間だけが過ぎていった。
少年には母親の記憶がほとんどない。
母親に手を引かれて歩いている記憶はある。が、その記憶の中の母親はぼんやりとしていて、その顔もはっきりしない。つまり、少年は母親の顔を覚えていなかった。
物心ついた頃から、少年は父親と二人で生活していた。
少年の父親は会社員で、少年が学校に行く前に家を出て、少年が家に帰ってから帰ってくる。食事はいつからか少年が用意し、自分は先に済ませ、父親の分をテーブルに置いておく。洗濯や掃除は分担。そんな二人三脚の生活を続けていた。
ある意味、少年が母親代わりであった。
家では母親代わりを務める少年は、その環境からか、思いやりがあり優しい性格に育っていた。そんな少年を慕う友人は多かった。それがまた、少年の支えとなっていた。
少年は父親の横顔を見る。父親はただ、前を見て運転している。その表情から何を考えているのか読み取れない。話し掛けるのも少しためらう雰囲気だった。
すると、少年の気持ちを察したのか、父親が少年の膝の辺りを軽く叩いた。ただ、その表情は変わらない。
(まあ、いいか)
少年はシートに背中を預け、軽く目を閉じた。
数十分ほど走っただろうか、車はある大きな屋敷の門をくぐった。
「うわぁ」
少年が感嘆の声を上げる。車でくぐれる程の大きな門。その奥に続く広い庭。大きな家。全て初めて見る物ばかりだ。
門をくぐってから数分、少年の父親は大きな屋敷の前に車を停めた。
「お待ちしておりました」
待ち受けていた男が、車のドアを開く。父親が車から降りる。少年もドアを開いて車から降りた。小柄な、でもきちんとした服を着た男が彼等の前に立ち、家の方に進んでいく。
「旦那様がお待ちです」
玄関の扉が開き、中に入った。
そこはいかにも豪邸という感じの家だった。
大広間のような部屋に付いていそうなシャンデリアが、玄関の上に付いている。玄関を入った先は広いホールのような部屋。そこの上にはさらに大きなシャンデリアが付いている。父親と少年は、その下を通って、さっきの小柄な人について行く。
「こちらでしばらくお待ちを」
廊下を進み、その先のドアを開いて言った。父親がその部屋に入る。少年も続いて入った。
そこは、玄関やホールに比べると、少しは少年でも落ち着くことが出来そうな部屋だった。先程のホールと比較すると華美な装飾はなく、普通の部屋のように見える。とはいえ、いくつもの装飾品がさりげなく置かれている。
(きっと全部高いんだろうな)
ソファの、父親の隣に座って思う。そっとソファの表面を手のひらで撫でてみる。なんだか手触りが違うような気がする。どう違うのかは分からないけど。ソファの前に低いテーブルがある。そのテーブルも木で出来ているが、表面には細かい色違いの木が埋め込まれて模様になっている。
「ここって、どこ?」
小声で父親に尋ねた。
「静かにしていなさい」
父親は前を見たままそう言った。
(なんだよ、全く)
そう思うが、そんな父親の態度に普段は感じない威圧感を感じる。父親の様子がいつもと違う。ちらりと父親の横顔を見る。口を閉じ、まっすぐ前を見ている。手を見ると、軽く拳を握り、膝の上に置かれていた。
(緊張・・・してる?)
そう思うと、少年も少し緊張し始めた。
そんな自分をごまかすように、部屋を見回した。あまり飾り立てられてはいない部屋。さりげなく置かれている花瓶や置物。壁には小さな絵が掛けられている。彼等の目の前のテーブルには、四角い箱が置かれている。角が丸くて細かい模様が入った箱だ。
(きれいな箱)
少年はそれを手に取ってみたくなる。ちらりと父親を見て、それに手を伸ばそうとした。
「触るな」
父親が小さな声で言った。少年は伸ばした手を引っ込めた。
「いや、お待たせしました」
身なりのいい男性が部屋に入ってきた。後ろから、玄関で待ち受けていた小柄な男も入ってくる。小柄な男は何かを持っている。
父親が立ち上がり、頭を下げた。少年もあわてて立ち上がり、頭を下げる。男が彼等の正面に座った。
「お世話になります」
父親が頭を下げたまま言った。
(何だろ)
少年は考える。父親がソファに腰を下ろしたので、少年も座った。顔を上げる。男と目が合った。思わず顔を伏せた。
(お世話になるって、何だろ)
男の視線を感じる。何となく体を動かすことが出来ない。父親も男も何も言わない。
(なんで僕が)
自分が連れて来られた意味を考える。が、この家も初めて来たし、この男にも初めて会う。
(何なんだろ)
少年には全く心当たりがなかった。
「あの、あれは」
「これがそうですね」
父親が何かを言い掛けたのに被せるように、男の声がした。
「あ、はい、そうです」
(何を話してるんだろ)
ちらりと上目遣いで男を見る。男の体が少年の方を向いていた。少年が顔を上げると、男が少年を見ていた。
「あっ」
思わず声が出た。反射的にまた顔を伏せた。少しずつ顔を上げて男を見ようとした。でも、まっすぐ見ていられない。顔ではなく、首の辺りを見る。そして、少しずつ顔を見る。
「うん」
男が小さく頷いた。
「あの」
隣で父親が身を乗り出した。
「分かっていますよ」
男が手を軽く上げた。後ろに控えるように立っていた、あの小柄な男が男に近寄る。
「小林、あれを」
小林と呼ばれたあの小柄な男が、布に覆われた薄い箱のような物を差し出した。男がその布を外す。そこには紙が入っていた。男がそれを取り、テーブルの上に置く。
「こ、これにサインすればいいですか?」
父親がまた身を乗り出した。
「まあ、まずはご確認下さい」
男が少し笑って言った。少年がテーブルの上の紙を覗き込んだ。その途端、父親が紙を手に取った。何枚かめくり、最後のページらしきところを開いた。そのページにはサイン欄があるだけだった。
男がテーブルの上の箱の蓋を開いた。中には万年筆が入っていた。それを取り上げる。
「前にもお話しした通りの内容を書面にしてあります」
そう言いながら、男は万年筆のキャップの部分を回す。外したキャップを万年筆の尻軸に差し込み、それを父親の方に差し出した。父親が手を伸ばす。
「ここに書けばいいんですね」
万年筆を受け取ると、父親は紙をテーブルに置き、その上に屈み込んだ。
「もっと良く確認しなくてもいいのですか?」
男が尋ねたが、父親はその問いを無視してサインした。
「では、あなたも」
男が少年に向かって言った。父親が万年筆を少年に差し出した。少年は男の顔を見、父親が差し出す万年筆を見た。
「ほら」
少年は動かなかった。
「ほら、早く」
父親が促す。少年は万年筆を受け取る。その万年筆は少し重く、軸の周りにきれいな模様が入っていた。
「ここだ。名前を書けばいい」
父親が、紙に書かれた父親の名前の下に指を置く。そこを見ると、線が引かれていた。顔を上げ、父親の顔を見る。
「早く」
真剣な顔に見える。男の顔を見る。男は微かに微笑んでいるように見えた。
「こ、これ・・・なんですか?」
少年は男に尋ねた。
「それは」
が、父親がそれを遮って言った。
「早く書け」
その怒気のようなものを含んだ声に、少年は少し驚き、父親の顔を見た。
「早く」
少年は紙に目を落とす。小さな文字がたくさん並んでいるのが、微かに透けて見える。時間を掛けて読めば何が書いてあるのか分かるだろう。が、少年にはそんな時間はなかった。
「ここ?」
父親を見上げる。父親が頷く。少年は、そこに自分の名前を書いた。
少年が名前を書いたとたん、父親がその紙を奪うように取り上げた。少年は万年筆を男に渡す。男はゆっくりと尻軸からキャップを取り外し、ペン先に被せ、回した。
「こ、これでいいんだな?」
父親が男に紙を差し出した。
「はい、これで契約完了です」
(契約?)
少年は自分がサインした紙が契約書であることを知った。
「ちなみに、解除条項は」
「それより」
父親が立ち上がった。少年はそんな父親を見上げた。父親は男の方に手を差し出した。
「焦らなくても大丈夫ですよ」
男は柔和な笑顔を見せた。
「小林」
あの小柄な男に何かを命じた。小林は一旦部屋を出て、すぐに布に包まれた包みを持って戻ってきた。
「こちらです」
それを父親に差し出した。父親はその包みから乱暴に布を剥ぎ取った。そこには札束があった。
「お金?」
父親はちらりと少年を見たが、すぐに目を手に持った札束に戻す。
「じゃ、じゃあ、これで」
父親は金を抱き締めるように胸に抱え、そそくさとソファから離れた。
「あ、お父さん」
少年も立ち上がり、父親の後を追おうとした。
「あなたはそのまま座っていなさい」
男が少年に向かって言った。
「えっ?」
父親は、振り向きもせず、小走りで部屋から出て行った。
「あの・・・」
少年には何が何だか分からない。男に尋ねようとした。
「まあ、待ちなさい」
手にした紙を小林に渡した。
「コピーを」
「かしこまりました、旦那様」
小林は紙を持って部屋を出て行く。
「あの」
少年は再び口を開いた。
「君は、お父様から何も聞いていないのですか?」
「はい」
少年は頷いた。
「なるほど。そういうことですか」
男は納得したようだ。しかし、少年には何も分からない。
「あのっ」
少し身を乗り出した。その時、小林が戻ってきて、男に紙を手渡した。男はそれをテーブルに伏せて置いた。少年はその紙を見つめる。少し手を動かしたが、それを手に取っていいのかどうかもよく分からない。裏から透けて見えるのは、先程の少年と父親がサインしたページだけだった。
「それはコピー、あなたの控えです」
男が言った。
「見てみなさい」
少年は手を伸ばそうとした。が、その手を途中で止める。
先程までは何が起きているのか知りたいと思っていた。でも、今はそれを知るのが怖い。それを知ることが何か大きな良くないことに繋がる気がする。いや、その確信のようなものがあった。手が震えた。顔を上げて、男の顔を見た。
「さあ、見て」
男が微かに笑った。そして、紙を少年の方に押しやった。
少年は震える手で、その裏返しになっている紙を表に向けた。
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