第U部 クルム


「兄ちゃんはHNAKC8S21さんが好きなの?」
僕のアナルに入れていたクルムが、突然言った。
「え、なんで?」
僕は少しどぎまぎする。
「だって、仲いいし、入れられてるとき気持ち良さそうだし」
クルムの声が少し小さくなった。
「仲がいいとか気持ちいいから好きっていうなら、クルムもそうだよ」
「でも……僕と兄ちゃんは……」
そこまで言って、クルムはその先を口ごもった。
「兄弟だからな」
クルムの表情が明るくなる。でも、すぐに顔が曇る。
「でも、兄ちゃんはHNAKC8S21さんが好きなんでしょ? 見てたら分かるもん」
なんとなく少しクルムの様子がいつもと違う気がした。
「まあ、HNAKC8S21さんとは仲いいし、好きだけど、クルムの方が好きだよ」
クルムは無言だ。表情もさえないまま。そのまま僕のお尻を突いている。
「どうした、なにかあった?」
クルムは何も言わない。そのまま腰を動かし続ける。やがて、少しずつその動きが早くなる。
「ああ、兄ちゃん……」
僕は気持ち良くなるために集中しようとする。でも、さっきのクルムの表情が気になって、なかなか集中出来ない。
「兄ちゃん、いく……いくよ」
「いいよクルム。大好きだよ」
すぐにクルムが僕にぎゅっと抱き付いてきた。クルムのペニスが僕の中でピクピクと動いているのを感じる。僕もクルムの背中に腕を回す。その腕にぎゅっと力を込める。
突然、クルムが僕の口に口を押し付けてきた。キスって奴だ。本で読んだことがある。雌がまだ絶滅する前は、雄と雌でしていたらしい。もちろん見たことはないし、実際にするのも初めてだ。そんなことを、どうしてクルムは知っているんだろう……
でも、悪い気はしない。むしろ、口と口とを合わせる、ただそれだけのことがこんなに気持ちいいなんて思わなかった。ずっとそうしていたい、そう思った時、クルムが顔を離した。
「ご、ごめんなさい、兄ちゃん……僕、なにしてんだろ……」
クルムは、それがキスというものだとは分かってなさそうだ。
「今の、キスって言うんだ。知ってた?」
クルムは顔を左右に振る。
「昔は雄と雌でしてたんだって」
「ぼ、僕は、ただ……気が付いたら、その……」
クルムは自分がしたことに困惑しているようだ。
「ねえ、クルム……もう1回して欲しいな」
「え?」
僕はクルムの方に両手を差し出した。クルムが僕に顔を近づける。両手でクルムの頭を抱きかかえるようにして、僕はその口に自分の口を押し付けた。
「ん……」
クルムが溜め息のような声を漏らす。僕は目を閉じ、そのままクルムの口を吸い続けた。本能が舌を動かした。クルムの唇に舌が這い、そしてその口の中に入っていく。クルムの舌と触れる。絡み合う。
「あぁ」
今度は僕があの時のような声を漏らす。自分の体が自分のものではないみたいに、腕と口と舌が勝手に動いた。手でクルムの髪の毛をかき回し、口は何度もクルムの口と重なり合い、舌はクルムの口の中に攻め入った。
(これが……キス)
初めて感じる感触、アナルに入れられるときの気持ち良さとは違う、初めて感じる気持ち良さだった。
「ふぅ」
お互い顔を離したとたん、同時に大きく息継ぎした。そして顔を見合わせて笑った。クルムの顔の曇りはどこかに消えていた。
(良かった)
僕は安心した。そして同時にHNAKC8S21さんともキスしたいという気持ちが芽生えたことを、心の中の深いところに沈めようとしていた。


その数日後、飼育施設で教官に呼び出された。
「お前もやっと、クローンとして役に立つ日が来た」
教官が紙を差し出した。それを受け取る。『食用許可証』だった。
「これ……」
聞かなくても分かる。僕も食料になる日が来たっていうことだ。飼育施設の所長のサインも入っている。1週間後の日付と、その2年後の日付が書かれていた。
「お前は来週から2年以内に食用として処理される。いつ処理されるかについては、追って世界統制中央機関の食料調達部から通達がある。そして、2年の間に食用とならなかった場合は廃棄処分、つまり殺処分もしくは他のクローンの肥料となる」
分かっている。いつも教えられている内容だ。そして、教官がそれを説明し、僕がそこにサインしたら、何があっても絶対にそれに従わなければならなくなるってことも。もちろん、サインを拒否することも出来る。けど、それは即、廃棄処分となるということだ。そこまでは知っている。
「お前の場合は特別な事情がある」
教官が続きを話す。でも、それは僕等は教えられていないことだった。
「お前は食料となる訳だが、二つ選択肢がある。一つは他の食料と同様に、世界統制中央機関によって割り振られ、配給される形」
教官は息を継いだ。
「もう一つは、今、お前がお世話になっている大尉殿に優先的に配給される形だ」
急に心臓がドキドキし始めた。
「要するに、大尉殿とそのご家族に食べて頂くか、それ以外の誰かに食べられるかを選べるということだ。1週間以内にどうするか決めて、この用紙に記入して、大尉殿のサインをもらって提出しなさい」
教官の声は聞こえていた。でも、その意味を理解出来たのは大分時間が経ってからだった。
家に、あの世界統制中央機関の建物に帰る途中もずっと心臓がどきどきしていた。入口の門のところで、いつもそこに立っている門番さんがいつものように挨拶してくれる。でも、僕にはいつもと違って見えた。
「お帰りなさい」
いつもと同じ笑顔で言ってくれる。でも、僕にはその笑顔が違って見える。
(食料のお帰りだ)
そう思っている。そんな筈はない。でも……
僕は顔を伏せて、急いで門を通り抜けた。途中ですれ違う職員の人もみんな、僕の事を食料としてしか見ていないように思える。最後は小走りになって僕等の家になっている一角に逃げ込んだ。そして、僕の部屋に入って、しっかりとドアを閉めた。
机に座るとカバンからあの紙を取り出した。カバンを床に放り投げる。椅子に座ってその紙を読み返す。裏面に書いてある小さい文字も隅から隅まで。心臓はずっとドキドキ言っている。手も少し震えていた。食料になることについては覚悟は出来ていた。でも、誰に食べられるかを選ぶことになるなんて思いもしなかった。ついさっきまでは、ただ食料になるとしか考えていなかった。だったら、誰かに食べられる方を選べばいいと思う。でも……
「出来れば兄ちゃんに」
つぶやくつもりはなかったけど、声が出ていた。そんな自分の声に驚いてビクッと体が動く。ようやく、兄ちゃんの声がしているのに気が付く。誰かに入れられている声。兄ちゃんの声。
(兄ちゃんに食べて欲しい)
手に持った紙に、水滴が落ちた。いつの間にか涙が出ていた。その理由が自分でも分からない。なんで泣いているんだろう……でも、すぐにその理由が分かる。兄ちゃんの声。今、隣の部屋で誰かに入れられている兄ちゃんの姿を想像する。声が出そうになるのを抑える。
(兄ちゃんと別れたくない)
そんな事は考えた事もなかった。食料になることは想像出来ても、兄ちゃんと別れることは想像出来なかった。誰かに食べられるということは、そういうことなのに。
兄ちゃんの部屋との間の壁にもたれて床に座り込んだ。兄ちゃんの声が聞こえる。その声を聞きながら、僕は声を出さずに泣いた。初めて、ヒトに生まれたかったって思った。

結局、誰に食べられるか自分では決められなかった。夜、お父さんが帰ってきたのを見計らって、お父さんの部屋に行った。お父さんの部屋は、僕等の部屋とは少し離れていて、その途中には警備の人が立っている。
「あの、お父さんに会いたいんですけど」
そう言うと、警備の人はすっと体を引いて通してくれる。僕は軽く頭を下げて、その前を通り過ぎた。その瞬間、警備の人がにやっと笑ったような気がした。慌てて僕は顔を伏せる。そんなことはない、そう自分に言い聞かせた。
「お父さん、僕です、クルムです」
「入りなさい」
お父さんの部屋は、少し落ち着いた感じの広い部屋だ。奥の窓の方にある、大きなデスクの向こう側にお父さんは座っていた。
「どうした?」
普段、ここには僕の方から来ることはない。それはお父さんも分かっている。
「あの、これを……」
僕はあの紙を差し出した。お父さんはそれを受け取って、ざっと目を通した。
「そうか」
その紙を机の上に置いた。
「トモロには言ったのか?」
「いいえ」
僕は首を左右に振る。
「兄ちゃんには……」
涙が出そうになった。お父さんの前では泣きたくなかった。ぎゅっと拳を握って、涙をこらえる。
「兄ちゃんには言わないつもりです」
そう一息で言ってから、そっと手で目尻を拭う。
「そうか……」
しばらくの間、二人とも何も言わなかった。かなり長い時間そうしていたと思う。僕も話せなかった。話そうとすると、泣いてしまいそうだった。でも、いつまでも黙ってはいられない。
「誰に食べられるべきでしょうか」
教官に言われた二つの選択肢をお父さんに話した。
「僕は、出来れば……お父さんと、に、兄ちゃ……兄ちゃんに」
涙が出てきた。でも、僕は最後まで言った。
「僕は出来れば、お父さんと兄ちゃんに食べられたいです」
もう涙が止まらなかった。お父さんは無言で立ち上がり、机の横を回って僕に近づいて、ハンカチを手渡してくれた。そして、机に戻る。
「お前の気持ちは良く分かる。だが、トモロの気持ちはどうかな」
お父さんがゆっくりと言った。
「あいつに、お前が食べられると思うか?」
「だ、だから、僕だってことは言わずに」
「もしもトモロが本当の事を知ったらどう思う?」
僕は何も言えなかった。僕を、弟を食べてたことを知ったら……
「分かりました」
僕は決心した。また涙が溢れる。それを両手で拭いながら机に近づく。お父さんがペンを差し出してくれる。それを受け取り、紙に記入してサインした。ペンをお父さんに渡す。お父さんもサインする。
「別の形で、トモロになにか残してやってくれ」
「はい」
僕は震える手で書類を受け取った。
「少しここにいなさい」
お父さんがそう言ってくれた。そして、僕をソファに座らせる。隣にお父さんが座る。もう我慢が出来なかった。僕はお父さんにしがみついて声を上げて泣いた。苦しい涙だった。お父さんはそんな僕の背中を、僕が泣き止むまでずっと撫でてくれた。


自分の部屋に戻る途中で、兄ちゃんの部屋の前を通る。兄ちゃんの部屋のドアが開いていた。一瞬、兄ちゃんと目が合う。
「クルム」
兄ちゃんが僕を呼ぶ。でも、正直、今は顔を合わせたくない。
「宿題あるんだ」
そう言って、目も合わさずに通り過ぎる。部屋に入ってドアを閉める。あの紙をカバンにしまう。
(これで僕は食べられるんだ)
もう涙は出て来なかった。いつか来るその日まで、兄ちゃんには何も言わずに過ごすつもりだ。その時もお別れは言わない。普通に施設に行くように家を出て、そして、僕の役目を果たすだけ。兄ちゃんが任務をこなすのと同じ。クローンとしての役目を果たすだけだ。

翌日、あの紙を教官に提出した。すると、耳に印……小さなチップみたいなもの……を埋め込まれた。ちょっと見ただけでは付いていることすら分からないような物だけど、それに機械を当てると、僕のいろいろなデータが読み取れるらしい。僕の毎日の健康状態や、食料として利用可能な期間とか、どの施設で飼育されていたかとか……
つまり、準備が整った、ということだ。あとはその時が来るのを待つだけだ。
その日はそれだけ済ませると帰っていいと言われた。トイレに行って、鏡に映して耳に埋められたものを見てみる。耳たぶの所に小さく少し黒っぽい物が見える。そこを触ってみると、確かに何か堅い物が埋まっている。僕は大きく溜め息を吐いた。
施設を出て、道をゆっくりと歩く。
(来週にでも呼び出されるかもしれない)
もしそうなったら、これがこの街の見納めになるのかもしれない。前に住んでいた家まで行ってみる。初めて兄ちゃんと出会った家。兄ちゃんと一緒に過ごして、任務に就く兄ちゃんを見送った家。僕等がこの家から出たあと、まだ誰も住んでいないようだった。ドアを開けようとしたけど、鍵が掛かっている。最後に中を見たかったけど、仕方がない。
兄ちゃんとよく行った公園に行ってみる。芝生に座って、その感触を確かめる。上を見上げる。上の方、岩の天井には光は届いていなかった。
(あのもっと上に、空ってのがあるんだな)
本で読んだことを思い出す。それには空は青くて、白い雲というのが浮かんでいると書いてあった。想像してみる。でも、青い空なんて違和感しかない。
立ち上がって、またゆっくりと歩く。考えてみたら、この街で思い出ってそんなになかった。あの家と、この公園と……あとは兄ちゃんが任務に就いていた強進センター。お父さんと一緒に面会に行って、初めて任務がどんな事なのか知った場所。近くまで行ってみる。この入口を通って兄ちゃんはここに入っていったんだな。僕もお父さんに連れられて入ったよな。そんな事を思い出す。あとは……飼育施設くらいだ。家に帰ろうか……でも、家には兄ちゃんがいる。少し落ち着いたけど、でもまだ兄ちゃんと顔を合わせたくなかった。まだ兄ちゃんといつものように話せる自信がなかった。

一人でふらふらと歩いてみようと思った。別に行く当てがある訳じゃない。ただ、行ったことがないような所に行ってみたいと思った。お父さんは上級一等市民だから、前の家も街の中心に近いところにあった。街の中心から離れた、街の外の方には一般市民の住むエリアがある。僕の施設は中心から少し離れてるけど、それでもまだ一般市民のエリアのずっと手前だ。強進センターの前から、施設の方に歩く。施設は今は見たくないから、少し遠回りをする。しばらく歩くと街の景色が変わってきた。中心の方は石造りの大きな建物が多かったけど、そういう大きな建物は減ってきて、小さな、そして少し古そうな建物が増えてくる。人通りはこっちの方が多いようだ。なんだか服装も少し違う。すれ違う人が僕を見る。僕の服装がこの辺の人達と違うからなのか、それともクローンだからなのか。ずっと歩いて行くと、家がなくなって、畑ばかりになる。お父さんよりもっと年上の人が、畑仕事をしている。施設では、作物は戦争の影響で昔の、戦争が始まる前の2割くらいしか取れなくなったって教わった。しかも、大きさは半分だ。だから、食料が必要なんだ、と。僕は道の端に座って、畑仕事を見ていた。畑の中で腰を屈めて何かをしている。しばらくすると、体を起こして腰の辺りを拳で叩く。また屈む。それをずっと繰り返している。
(大変そうだな)
街の中心の方ではこういう光景は見られない。施設でも実際の畑作業がどういうものなのかは教えてもらわなかった。ああやって作業して、そして作物を手に入れる。でも、みんながちゃんと食べて行くには充分な量じゃないということは教えられていた。
(僕等は、あの代わりなんだ)
あの作業の代わりに、あの作物の代わりに僕等は食べられるんだという実感があった。苦労して畑で作業しても全然足りない食物を補うために、僕等は役目を果たさなければならないんだ。今まで言葉で教えられたことを、初めて現実的に感じた。今まで理解していたつもりだったけど、本当は何も分かっていなかったんだ。
僕は立ち上がった。畑で作業をしていた人が僕に気が付いた。僕はその人に頭を下げて、来た道を引き返した。



家に戻ると、誰か来ているようだった。兄ちゃんの声が聞こえる。HNAKC8S21さんではなさそうだ。僕は兄ちゃんの部屋のドアを開けて、中を覗いた。見たことがない人が、兄ちゃんのアナルに入れていた。
「兄ちゃん、ただいま」
「お、お帰り」
兄ちゃんは顔を上げて僕を見た。少し辛そうな顔をしている。そうだ。兄ちゃんもこうやって任務を頑張ってるんだ。みんな、頑張ってるんだ。僕は、食料になることで、そうやって頑張ってる人の力になるんだ。
「兄ちゃん、頑張れ」
僕は笑顔でそう言った。兄ちゃんが僕を見て頷く。僕はそっとドアを閉めた。
くぐもった兄ちゃんの呻き声が聞こえた。

 
      


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