荷物をほとんど詰め終えたところで、少しカバンに余裕があった。あの本を……お父さんから借りていた本をその隙間に詰め込む。
(きっとお父さんも、これくらい許してくれるよね)
カバンのフタを閉じたところで、ノックの音が聞こえた。
(兄ちゃん?)
一瞬嬉しくなって立ち上がりかけて、でもすぐに躊躇した。
「クルム?」
HNAKC8S21さんの声だった。僕はドアを開いた。
「トモロが来て欲しいって」
僕は何も言わなかった。僕はカバンを持ってHNAKC8S21さんの後に付いて兄ちゃんの部屋に向かった。HNAKC8S21さんは僕の荷物を見ても何も言わない。きっと僕が食料になることは、もう知っているんだろう。
HNAKC8S21さんが兄ちゃんの部屋のドアを開ける。もう鍵は掛かっていなかった。HNAKC8S21さんは部屋に入ってすぐのところの横に立って、僕を通してくれた。そして、ドアを閉める。
「鍵掛けて」
兄ちゃんが言った。ガチャリという音が聞こえた。
「クルム」
兄ちゃんはさっきのようにベッドの端に座っていた。そして、僕を見ている。僕も兄ちゃんを見る。
「クルムは食料になりたいの?」
どう答えるか、少し迷った。そして言った。
「クローンとして、その覚悟は出来てます」
すると、兄ちゃんは溜め息を吐く。
「クルムはどうなの? クローンとして、じゃなくて」
また僕は迷う。すると兄ちゃんが言った。
「僕はクルムと一緒にいたい。だから、食料になって欲しくない」
「それは……」
(僕も同じです)
そう言いかけたけど、言えなかった。僕はクローンなんだから。HNAKC8S21さんはドアの所に立ったまま、僕等のやり取りを何も言わずにずっと見ていた。
「クローンなんだから、なんて思ってない?」
そして兄ちゃんがベッドから下りた。僕に近づく。僕は1歩後退る。兄ちゃんは立ち止まった。
「僕の事、嫌い?」
僕は首をゆっくりと左右に振る。兄ちゃんがまた僕に近づいた。
「僕ともう一緒にいたくない?」
ほとんど反射的に首を横に振る。横に振ってしまってから、縦に振った。
「食料になりたい?」
また同じ質問だ。首を縦に振ろうとした。でも、少し迷う。チラリと兄ちゃんを見た。
急に兄ちゃんが僕の頬を両手で押さえて、口に口を押し付けて来た。僕は少し後退る。でも、兄ちゃんは僕の顔を押さえたまま、口を押し付け続ける。そして、手を背中に回してぎゅっと力を入れた。
「一緒に逃げよう」
僕の耳元で兄ちゃんが言った。
「そんなこと……」
出来る訳がない。でも、少しだけ……ほんの少しだけ、そう出来たらな、と思った。
「HNAKC8S21さんが助けてくれる」
僕は兄ちゃんに抱き締められたまま、HNAKC8S21さんを見た。僕等を見ている。その表情に変わりはない。
「HNAKC8S21さんが、上に行ける場所を知ってる。そこから上に逃げよう、二人で」
「でも、上って……」
上の世界は最終戦争の後、生物は住めなくなっている。そんなことは常識だ。
「最終戦争が終わってから、もう50年経っている。上の世界、つまり地上がどうなっているのかは、今は誰も知らない」
HNAKC8S21さんが口を開いた。
「死ぬかもしれない。でも、死なないかもしれない。そして、ここにいたら、クルムは間違いなく食料になる」
HNAKC8S21さんの声は冷静だ。そして、その冷静な声は、僕を少し落ち着かせてくれる。
「でも……」
「行こう、クルム」
兄ちゃんが言った。
「二人で上に行こう」
「でも、兄ちゃんは……」
「クルムがいなくなれば、いずれ中央は気が付く。そうすれば、もちろんトモロも疑われる」
HNAKC8S21さんは相変わらず冷静だ。
「でも、兄ちゃんは神の子なんだし」
「神の子でも同じだ。俺だって同じだ。だから、二人じゃない。3人だ。3人で逃げるんだ」
「それに……」
今度は兄ちゃんが口を開いた。
「それに?」
「それに、地上ってのを見てみたい」
「そうだな。俺もそれは見てみたい」
なんとなく、HNAKC8S21さんの顔が緩んだ。
「僕も地上を見てみたい。青い空とか雲とか海も見てみたい」
そして、兄ちゃんの目を見た。
「兄ちゃんと一緒に見てみたい」
僕の心が決まった。兄ちゃんに迷惑をかけたくないと思っていた。でも、兄ちゃんは僕を選んでくれた。そして、地上という、誰も見たことがないところに僕等は行くんだ。しかも、HNAKC8S21さんが一緒だ。
「決まったな。じゃ、準備して、今夜ここにもう一度集合だ」
HNAKC8S21さんはそう言って、準備開始の合図のように手を1回叩いた。
「僕はもう、準備出来てる」
僕はカバンを掲げて二人に見せた。
「食料とか水も入るだけ詰め込んでおけ。要らなきゃ捨てればいいだけだからな」
その日の夜までに、僕は荷物を詰め直した。服とかはなるべく減らして、食料とか水を入れるようにした。でも、あの本だけは持って行くことにする。そして、荷物を持って兄ちゃんの部屋に行く。兄ちゃんはあの後、普通に任務をこなして、そして、荷造りを済ませていた。あとはHNAKC8S21さんが来るのを待つだけだった。
HNAKC8S21さんは、大きなリュックを背負って来た。僕がすっぽりと入りそうなくらいに大きなリュックに驚いていると、HNAKC8S21さんが言った。
「食料、野営用のテント、調理器具、ライト、薬、それに武器だ」
武器……それを聞いて、初めて僕等は怖い場所に行くのかもしれないと思い至った。ここから逃げれば、たぶん二度とここには戻れない。そして、これから行くところは、今、どうなっているのか誰も知らない場所だ。やっぱり僕等は無謀なことをしようとしてるんじゃないだろうか……少し躊躇した。
「よし、じゃ、行こう!」
兄ちゃんの声が、そんな躊躇を吹き飛ばす。そして、HNAKC8S21さん、僕、兄ちゃんの順に、僕等は静かに建物を抜け出した。
地上に行けるかもしれないという場所は、街の西側の外れにあった。そこまで歩いて1時間近くかかった。大きな山……実際には、この地下の世界と上の世界の間の柱のような物……を登っていくと、中腹くらいに鉄の扉があった。HNAKC8S21さんがその扉の取っ手に手を掛けて押すと、大きなきしみ音を立てながら、扉が開いた。扉の先は奥まで続くまっすぐな通路。もう何年も誰も来たことがないように見えるその通路には、灯りは全くない。HNAKC8S21さんが鉄の扉を内側から閉めると、目の前にかざした自分の手すら見えないくらいに真っ暗になる。そんな中を、HNAKC8S21さんが準備していたライトを頼りに進んで行く。しばらく行くと、小さな赤い光が見えた。近づくと、左に扉があった。その扉には、さっきの扉の取っ手のような手を掛けるところはなく、扉の右側に数字が書かれた小さなボタンが並んでいた。赤い光はその横で光っている。通路の正面は行き止まりになっており、先に進むには、その扉を開くしかなかった。
「電子ロックってやつだな」
HNAKC8S21さんがその扉を調べて言う。
「開け方分かる?」
HNAKC8S21さんは首を左右に振った。
「他に行けそうなところはない?」
ライトで扉の周囲や通路を照らしてみる。扉のような所は他にはない。
「困ったな」
HNAKC8S21さんはそう言ってから、何かを思い出したかのようにリュックを下ろして、横のポケットに手を突っ込んだ。
「ほら、これ」
封筒を兄ちゃんに手渡した。それをライトで照らしてくれる。
『困った時に開けること』
お父さんの字だった。僕と兄ちゃんはHNAKC8S21さんの顔を見上げた。
「君達のお父さんには、君達がこうすることはお見通しだったみたいだよ」
そして、ライトを振る。早く封筒を開けろってことだ。兄ちゃんが封筒の口を破る。中にはメモ用紙が入っていた。それをライトにかざす。いくつかの数字が羅列されていた。
「それ、入力してみろ」
HNAKC8S21さんが兄ちゃんを促す。兄ちゃんはそのメモを見ながら、一文字ずつ、ボタンを押していった。そして、押し終えたと同時に、どこかで小さな音がした。扉がゆっくりと横に動く。その奥は四角い部屋になっていて、その部屋の正面の壁には、上に続くはしごが付いていた。
「噂は本当だったみたいだな」
HNAKC8S21さんがはしごに手を掛けて揺すってみる。
「大丈夫みたいだ。まず、俺が上がって様子を見てくるから、君達はここで待ってろ」
そして、一人ではしごを登っていく。僕等はそれを見上げていたけど、すぐにHNAKC8S21さんの姿は暗闇に紛れて消えていった。口に咥えたライトの光だけがふわふわと漂っている。きしみ音、そして、金属音。しばらくすると、HNAKC8S21さんが下りてきた。
「上まで行けそうだ」
「ほんと?」
僕と兄ちゃんの声が重なった。
「ああ。だから、決断の時間だ」
HNAKC8S21さんが床に座り込んだ。
「あそこを抜け出して、まだ2時間くらいだ。今戻れば、何事もなく今まで通りの生活に戻れる。それが一つ目の選択肢だ」
「それはないよ」
兄ちゃんが言う。
「じゃ、二つ目の選択肢は、ここに留まるってことだ」
HNAKC8S21さんが床を手で叩いた。
「ここならそう易々とは見つからない。誰も来ないだろうから上に上がるよりは危険は少ない。だけど、いずれ食料も水もなくなるだろうから、その時は進むか戻るか決めなきゃならない」
「それは、ただここで時間を無駄にするってことじゃない?」
僕は黙ってHNAKC8S21さんと兄ちゃんの会話を聞いていた。
「じゃ、最後の選択肢。さっき見てきたけど、この上にハッチがあった」
ライトではしごの先の方を照らす。でも、そのハッチまでは光は届かない。
「ハッチは開いた。そして、たぶん、それを出たら上の世界だ。少しだけ開けてみたけど、上の空気を吸えばすぐに死ぬ、というようなことはなさそうだった」
「じゃあ、行こうよ」
「クルムはどうだ?」
僕は黙って頷いた。
「分かった」
HNAKC8S21さんがリュックに手を差し入れた。そして、中から何かを取り出した。
「クルム、動くなよ」
ナイフだった。HNAKC8S21さんは僕を地面に押さえ付けて、ナイフを顔に当てた。
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