「な、なにするんだ!」
兄ちゃんの叫び声が部屋の中に響き渡る。ナイフを奪い取ろうとHNAKC8S21さんの腕にしがみついたけど、びくともしない。
「落ち着け」
HNAKC8S21さんが言った。
「クルムは分かってるようだな」
僕は地面に押し付けられたまま、頷いた。
「トモロ、クルムの耳にはチップが埋められている。食用許可が下りたクローンには必ず埋め込まれるんだ」
兄ちゃんは、HNAKC8S21さんの腕に手を掛けたまま、僕の顔を見た。
「ほら、左耳の耳たぶのところ。触ってみれば分かる」
兄ちゃんが僕の耳たぶを触る。そして、それを感じたのか、少し動きが止まった。
「あっただろ?」
兄ちゃんも地面に座った。そして、比べるように自分の耳たぶを触った。
「これはクローンの状態を記録するためのものだが、このチップのある場所の特定も出来る。つまり、逃亡防止だ」
「それ……そのチップ、取り出せばいいの?」
「このチップには生体検知機能がある。つまり、チップだけ取り出したら、生体が検知出来なくなって、すぐにクルムが飼育されていた施設に通知される」
ずっと自分の耳たぶを触っていた兄ちゃんの手が止まった。
「じゃ、じゃあ、どうしたら……」
「耳をそぎ落とすか」
「だめ、だめだよ、そんなの」
また兄ちゃんの声が響く。
「落ち着け。耳たぶを切り落とすだけでもいい」
僕は、僕の左耳の耳たぶを引っ張った。
「HNAKC8S21さん、切って下さい」
兄ちゃんが驚いたような目で僕を見ている。
「クルムが逃げるためには絶対に必要な事だ。分かるな?」
HNAKC8S21さんが兄ちゃんに言った。兄ちゃんは俯いて、でも頭は上下に動く。
「よし。じゃあ、これを咥えろ」
リュックからタオルを取り出し、丸めて僕に渡す。そして、何か小さな容器を取り出して、その中身を僕の耳たぶに塗った。
「トモロが入れられるようになったとき、痛みを和らげるための薬を体に入れられてたの、覚えてるか?」
兄ちゃんは頷いた。
「これはあの薬だ。気休め程度にしかならないかもしれないが、ないよりはましだろ」
そして、ガーゼとか、他の薬とかを地面に並べる。
「いいか、クルム」
僕は頷く。兄ちゃんを見る。僕を見ていた兄ちゃんが目を背け、そして立ち上がる。
「兄ちゃん……ここにいて」
部屋の入口の方に歩きかけた兄ちゃんを呼び止めた。
「手、握ってて」
右手を差し出す。兄ちゃんは僕の横に座って、その手を握ってくれた。
「行くぞ」
僕はタオルを咥える。すぐに左耳を痛みが襲う。タオルを強く噛み締めて、兄ちゃんの手をぎゅっと握る。でも、次の瞬間にはそれは終わっていた。
「よく頑張ったな」
HNAKC8S21さんが水の入った水筒と、白い小さな錠剤を差し出した。
「飲んだら起きていられない程眠くなるが、腫れとか化膿を押さえてくれる。大分違う筈だ」
そして、僕の耳を止血して、ガーゼを当てる。
「二人とも、しばらくここにいるんだ。ここなら安全だから、眠っておく方がいい」
そして、HNAKC8S21さんが立ち上がった
「どこに行くの?」
兄ちゃんが尋ねる。HNAKC8S21さんは切り取った僕の耳たぶをガーゼに包んで、それを兄ちゃんに見せた。
「言ったろ、これがあると場所が特定出来るって。だからここには置いておけない」
「どこに置いてくるの?」
「一旦戻って、出来るだけ家の近くに置いてくる。たしか、このチップでの位置確認は、通常は1日に1回だけ。今夜のうちに置きに戻れば、クルムがここに来たことは分からない筈だ」
兄ちゃんは立ち上がった。
「僕も行く」
僕も立ち上がろうとした。けれど、体に力が入らない。
「見ろ。クルムはさっきの薬の影響で起き上がれない。こんなクルムを一人でここに置いておくのか?」
「……分かった」
渋々、という感じで兄ちゃんは僕のそばに座る。僕は兄ちゃんの手を握る。
「心配するな。今はまだ誰も気付いてない筈だ。すぐ戻ってくる」
そして、リュックから何かを取り出す。それを組み立てて地面に置くと、それはぼんやりと光り出した。
「これは屋外用の灯りだ。そのうちもう少し明るくなるし、俺が帰ってくるまでは充分持つ筈だ」
「どれ位で帰ってくるの?」
「そうだな……2時間ってところかな」
「気を付けてね」
僕の意識は朦朧としていた。眠くてたまらない。耳の痛みはどこか遠くでしか感じない。薬のせいなんだろうな……兄ちゃんとHNAKC8S21さんの会話をぼんやりと聞きながら思った。そして、眠りに落ちた。
何か声が聞こえる。
「でも、その可能性があるんだったら、クルムは……」
兄ちゃんの声だ。そしてもう一つ。
「俺達の知らないなにかがあったということなんだろうな」
目を開ける。すると、HNAKC8S21さんが戻ってきていた。僕は床に横になっていた。上半身を起こす。
「あ、目、覚めた」
すると、HNAKC8S21さんが僕の額に手を当てる。
「熱も下がったし大丈夫だな」
僕は体を起こす。まだ頭がぼんやりしている。
「痛みはどうだ?」
そう言われて、耳たぶを切り落としたことを思い出す。痛みはどこか遠くの方で感じている。その通り告げる。
「今は薬の影響でそう感じるんだな。そのうち少し痛むから覚悟しておけよ」
二人は何かを飲みながら話をしていたようだ。僕がそれに気が付くと、兄ちゃんがカップを手渡してくれた。
「熱いから気を付けろよ」
甘い匂いがしていた。少しすする。体に広がっていくのを感じる。
「もう少し休んだら、上に出発だ」
そうだ。僕等は上に行くんだ。
「もう一度だけ君達に確認しておく」
HNAKC8S21さんが言う。
「その封筒、それは俺が荷造りしているときに、ドアの隙間から差し込まれていたものだ。見て分かる通り、君達のお父さんの字だ」
兄ちゃんの手にあの封筒があった。
「つまり、君達のお父さんは、俺達が逃げ出すことを知っていて、その上で手助けしてくれたって訳だ。そして、もう一つ」
HNAKC8S21さんが兄ちゃんを見る。兄ちゃんはその封筒から小さな紙を取り出し、僕に手渡した。1枚の、古い写真だった。
写真には若い人と、もう一人、見たことがない人が写っていた。その見たことない人は、腕に赤ん坊を抱いている。
「これは?」
「裏を見て」
兄ちゃんに言われた通り、裏を見てみた。右下に小さく、『クルム 2170年』と書いてあった。
「僕の名前……」
もう一度写真を見る。若い人にはなんとなく見覚えがあった。
「お……父さん?」
HNAKC8S21さんが頷いた。
「たぶん、間違いないだろう」
「これはなに?」
僕はもう一人の見たことがない人を指差した。
「それは、雌だよ」
僕は写真をじっと見つめた。初めて雌の姿を見た。
「たぶん、2170年のお父さんと、雌と、そして……」
兄ちゃんは最後まで言わなかった。
「僕……」
でも、それはあり得ない。雌は2168年、兄ちゃんが生まれた年に絶滅した筈だ。3人とも、しばらく何も言わなかった。やがて、HNAKC8S21さんが口を開いた。
「その写真がどういうもので、どういう意図であの封筒に入れられていたのかは分からない。間違いないのは、そこに写っているのは若い頃の君達のお父さんだということだけだ」
そして、少し間を置く。
「あとは推測だが、実は雌は2168年に絶滅したんじゃなくて、その後もまだ生きていて、そして、2170年にクルムを産んだんじゃないかって。あくまで一つの可能性だけど」
兄ちゃんが僕の顔を見た。
「もしそうだったら、クルムはクローンじゃないし、お父さんの本当の子供ってことになるんだよね」
「その可能性がある、と言うだけだ。雌がクルムを抱いているからといって、この雌が産んだとは限らない」
「僕は……種なしだから」
それは飼育施設の検査でも間違いなかった。
「クローンは種なしだけど、種なしだからクローンとは言い切れない」
HNAKC8S21さんが写真を指差した。
「それに、裏に名前が書いてあるからと言って、ここに写っているのがクルムだという確証もない」
「だったら、なんで?」
兄ちゃんとHNAKC8S21さんの声を聞きながら、僕は思い出していた。あの施設で、初めてお父さんに会った時のことを。お父さんは他にもクローンがいたのに、僕を見て言ったんだ。
『この子です』
「そうだ……お父さん、僕を探してたんだ」
兄ちゃんとHNAKC8S21さんが僕の顔を見た。
「お父さんと初めて施設で会ったとき、お父さんはクローンを選んでたんじゃなくて、僕を探してたみたいだった」
「やっぱり、クルムはお父さんの本当の子だったんだ」
兄ちゃんの顔が明るくなった。
「まだそうとは言い切れない。もしそうだったら、なんで大尉はクルムの食用許可証にサインしたんだ? 自分の子供を食料にするんだぞ?」
「それは……」
兄ちゃんが考え込む。
「僕等が逃げ出すことが分かってたとか……」
兄ちゃんが自信なさそうに言う。
「とにかく」
HNAKC8S21さんが話す。
「俺達の知らないなにかがあった。それは確かだろう。でも、それがなんだったのかは分からない。この写真で君達のお父さんがなにを伝えたかったのかも分からない」
そして、兄ちゃんと僕の顔を見る。
「ただ、言えるのは、君達のお父さんは俺達が逃げるのを知って、協力してくれた。それはつまり、俺達が逃げた事が明るみに出たら、君達のお父さんは逮捕される可能性があると言うことだ」
「そんな……」
思わず声が出た。僕のせいでお父さんが捕まる。そんなこと、考えてなかった。
「兄ちゃん、戻ろう」
僕は立ち上がる。でも、兄ちゃんは座ったままだった。
「兄ちゃん……」
「クルム、聞いて」
兄ちゃんは僕の手を引いて座らせた。
「お父さんのことは、いつかはそうなるかもしれないって思ってた」
そして写真を指差す。僕は、写真を兄ちゃんに渡した。兄ちゃんはしばらく写真を見つめ、そして口を開いた。
「でも、お父さんはクルムに生きて欲しいと思ってる。じゃなきゃ、こんな写真」
兄ちゃんは、そこまで言ってHNAKC8S21さんの顔を見る。
「俺もそう思う」
HNAKC8S21さんが頷いた。
「だから……僕等は逃げなきゃいけない。逃げて、生きて行くことを、きっとお父さんも望んでるから」
「でも、お父さんが……」
「クルム」
兄ちゃんが僕の手を握った。
「ねえ、クルム……僕はクルムと一緒に生きて行きたい。お父さんもそれを望んでくれてるなら尚更だ。絶対、クルムを食料になんかしたくない」
僕はHNAKC8S21さんの顔を見た。でも、HNAKC8S21さんは何も言わない。僕等二人で、僕等家族でどうするか決めなければならないというのが分かった。
「もし本当に、クルムがお父さんの子なら、絶対に生きて欲しいって思ってる筈だよね」
兄ちゃんがHNAKC8S21さんを見る。HNAKC8S21さんは頷いた。
「行こう、クルム、一緒に」
胸の中にいろんな思いがあった。でも、その思いの中で一番大きいのは兄ちゃんだ。そして、僕も兄ちゃんと一緒に行きたいと願っている。
「分かった」
兄ちゃんが笑顔になった。そして、あの写真を僕に差し出した。
「これはクルムが持ってて」
「うん」
僕はそれを受け取った。お父さんへのいろんな思いをそれに封じ込めるために。
「よし。じゃあ、朝になったら出発だ」
朝までの短い時間、僕等3人は仮眠を取ることにした。僕と兄ちゃんは手を握り合って、そしてHNAKC8S21さんはそんな僕等を守るように抱き締めながら、この地下の世界での最後の時間をかみ締めた。
「ゆっくり付いて来るんだ」
HNAKC8S21さんがはしごを登る。その後ろが僕、最後が兄ちゃんだ。
「ここで待ってろ」
はしごの上にハッチが見えたところで、HNAKC8S21さんが僕等を置いて先に上がる。ハッチに手を掛ける。一呼吸置いてそれを回すと大きなきしみ音がした。徐々にその音が小さくなっていく。
「開けるぞ」
僕等は息を飲む。やがて、HNAKC8S21さんがゆっくりとハッチを開いた。
細い光の筋が現れ、そして明るい光がはしごの方まで差し込んだ。HNAKC8S21さんの姿がその光の中に溶けていった。
<第V部に続く> |