第V部 上の世界


明るい光の中にクルムが消えていく。そして、僕もその後に続いた。
最初に見たのはコンクリートの壁。そして雑草。
「兄ちゃん……」
周囲を見回していた僕は、クルムの声に振り向いた。クルムは体が仰け反るくらいに顔を上に向けていた。
「兄ちゃん、あれ……」
そんな姿勢のまま、ゆっくりと上を指差した。その指の指し示す方に顔を向けた。
「な、なに……これ……」
僕等がいる場所は、壊れた建物の中だった。壁は崩れ、窓のガラスは割れていた。床はところどころ剥がれていて、雑草が生えている。壁の高さから考えると、クルムが見上げているその方向には上の階の床がある筈だ。でも、そこには何もなかった。ただ、そのもっと向こう、僕等が見上げた視線の遙か先には青いものが広がっていた。僕は窓に近づいてそこから外を見てみた。同じように青いものが広がっている。目で追ってみると、ずっとずっと遠くで茶色がかった緑色の地面と接していた。青い中の遠くの方に白い綿のようなものが浮かんでいる。
「これ……空……だよね、兄ちゃん」
そうだ。本で読んだ。上の世界には天井じゃなくて空があって、空は青くて白い雲というのが浮かんでいるんだって。
「そうだよ……空……空だよ」
僕とクルムは顔を見合わせた。先に笑い出したのは僕だった。続いてクルムも笑い出した。僕等は二人、涙が出るまで笑った。
「空だよ、空」
「空だね、兄ちゃん」
「空だよ、クルム。僕等、来たんだ。上に」
僕等は建物を飛び出した。どっちを見上げても空だ。HNAKC8S21さんも上を見上げていた。僕等3人は、首が痛くなるまで空を見上げ続けていた。
「本当だったんだ、空って」
「雲も、太陽もある」
「本で読んだ通りだ」
「すごい……すごいよ」
はしゃぎ続ける僕とクルムの様子を見ながら、HNAKC8S21さんは大きなリュックを下ろして何かを取り出した。それは小さな機械で、HNAKC8S21さんが操作すると、赤とオレンジと青のランプが光って、やがて青だけになった。
「空気は大丈夫だ。別に毒性はないみたいだ」
そして、僕等に言う。
「遠足に来たんじゃないぞ。ここから移動する」
僕とクルムは慌てて自分の荷物を持ち上げた。
「どこに移動するの?」
「まずは水が確保出来るところを探す。その後、これからのことを考える」
「分かった」
僕は周囲を見回した。コンクリートみたいな建物がいくつか見える。道のようなものもあるけど、雑草が生い茂っていて、どこまでが道になっているのかよく分からない。建物はあのハッチがあった建物を中心にして、数える位しかなかった。後は地面がずっと遠くまで続いて、所々茶色い固まりが見える。そして、地面は遙か遠くで空に繋がっていた。
「足下気を付けろ」
HNAKC8S21さんに言われて見下ろして、僕は固まった。僕の足下に頭蓋骨があった。
「に、兄ちゃん」
クルムが怯えた声を出す。クルムの足下にも頭蓋骨があった。いや、僕やクルムの足下だけじゃない。空を見ていて気が付かなかったけど、ここの地面にはたくさんの骨が散らばっていた。
「たぶん、ここはシェルターだったんだろう」
HNAKC8S21さんが言う。
「その骨は、このシェルターに入りきれなかった人のものじゃないかな」
骨はなんとなく道らしきところに沿って散らばっている。僕等は人骨を避け、ハッチのある建物に戻った。
「ハッチの下、俺達がさっきいたところは、きっと最終戦争のときにはシェルターとして使われていたんだ」
「シェルターの中の人達はどうなったの?」
僕が思ったことと同じことを、クルムが尋ねた。
「これも想像でしかないけど、下の世界の側の扉は最初はなかったんじゃないかな」
HNAKC8S21さんはハッチを軽く叩いた。
「最初、出入り口はここしかなかった。入りきれなかった人達はああなった」
HNAKC8S21さんは回りに散らばる骨を指差そうとしたけど、手のひらで示すだけにした。
「そして、いつの段階かは分からないけど、地下に続くほうに穴を開けて、そこから地下に下りていった」
「つまり、その時はこっちには出られなかったってこと?」
「恐らく。たぶん、噂通りだったんだろう、その時は」
上の世界、つまり、今、僕等がいる世界についてはいろんな噂があった。今でも雨が降り続いているとか、その雨は猛毒を含んでいるとか、空気も猛毒で、吸った瞬間に死んでしまうとか。
「恐らく、噂のほとんどは、その当時は事実だったんだと思う。実際、最終戦争の後、雨が何年も降り続いたために、人類は地上を放棄せざるを得なくなったのは史実だからな」
「でも、もう今は違う?」
「少なくともここは違うみたいだ」
僕とHNAKC8S21さんの話を黙って聞いていたクルムが、突然遠くを指差した。
「なにか動いた」
「隠れるんだ」
HNAKC8S21さんが僕等に指示した。窓からそっと外を見てみると、確かに何か小さな黒いものが、少しずつこっちに近づいて来るのが見える。HNAKC8S21さんがリュックから銃と双眼鏡を取り出した。
「見える?」
クルムが小声でHNAKC8S21さんに尋ねる。
「ああ。犬……みたいだ。驚いたな、生き残ってたんだ」
犬と聞いて少しほっとした。クルムも同じように安心したらしく、建物の入口から顔を出した。
「出るんじゃない」
HNAKC8S21さんがそう叫んだのと同時に、犬が僕等の方に走り始めた。HNAKC8S21さんが銃を構える。犬はあっという間に近づいて、クルムに飛びかかろうとした。
「うわぁっ」
クルムは両手で頭を抱えてしゃがみ込んだ。同時に銃声がした。どさっという音。そして、足音。僕はクルムに駆け寄った。
「大丈夫?」
「兄ちゃん」
クルムは無事なようだ。すぐ横の地面、ハッチのところから続いているコンクリートの床に、少し血の痕が付いていた。
「横っ腹にぶち込んだのに、まだ逃げられるとはな」
HNAKC8S21さんが銃を構えたまま、僕等に近づいて来た。
「たぶん、犬が野生化したんだろう」
クルムに手を差し伸べて立たせた。
「ここではなにが起こるか分からない。見慣れたようなものでも気を抜くな」
「分かった」

その後、僕等はあのハッチがあった建物で、水が確保出来る場所を探しにいったHNAKC8S21さんを待っていた。クルムは双眼鏡で窓から外を見張り、そして僕は銃を握っていた。もちろん、銃なんて撃ったことはなかったけど。
やがて、HNAKC8S21さんが戻ってきた。リュックから水が入ったペットボトルを何本か取り出す。
「シェルターの近くに安全な水源があるって睨んでたけど、そう離れていないところにまだ使える水道があった」
そのうちの1本から、少しカップに注ぐ。そして、錠剤を取り出して、クルムに差し出した。
「耳、どうだ? 今日も飲んでおけ」
「痛くないし、寝ちゃうからいらない」
「だめだ。ここでなんかあったらそれで詰んじまうんだから、飲んでおけ」
クルムはそれを受け取り、飲もうとした。
「この水、飲んでも死なない?」
「確認済みだ」
HNAKC8S21さんはまた小さい機械を取り出した。ここの空気を調べたときのやつだ。横のフタを開けて、コードみたいなものを引っ張り出す。それをクルムが持っているカップの中の水に浸してしばらく待つと、青いランプが光った。
それを見て、クルムは錠剤を水で飲み下した。
「さて、これからの事だが……下の世界が俺達が逃げたことに気付く前に、ここからなるべく遠くに離れたいと思う」
「賛成」
僕は右手を挙げた。
「しかし、さっきの犬のような奴がうようよしているかもしれない。俺達はこの世界を知らなさすぎる。どこにどんな危険が潜んでいるか、全く分からないってことだ」
確かにそうだ。空気も、水も大丈夫なのかどうかも分からなかった。犬だって襲ってくる。もっと他にも何かいるかもしれない。いや、たぶん、何かはいるんだと思う。
「だから、先に最低限の身の守り方だけ覚えてもらう。ここを離れるのはその後だ」
確かに、今の僕等じゃさっきみたいに犬に襲われただけでも自分の身も守れない。HNAKC8S21さんの言う通りだ。
「クルムはどう思う?」
しかし、クルムは既に眠っていた。
「じゃ、まずはトモロからだ」
そして、僕は銃の扱い方を教えてもらった。

といっても、もちろんそう簡単に銃が扱えるようになる訳じゃない。僕が教えてもらったのは、相手に当てるというよりも、銃の音で相手を驚かせるためのやり方だ。つまり、銃の撃ち方。取りあえず相手に向けて銃を撃つ。それだけを教えてもらった。クルムも同じだ。でも、銃の弾にも限りがあるから、僕もクルムも実際に撃たせてもらったのは5回ずつだった。5回撃ってもまともに撃てない。撃ったときの反動で、弾がどこに飛んでくかも分からない。なんとか前に飛ぶようになっただけで上出来だってHNAKC8S21さんに言われた。でもそれすらも、いざという時にはどうなるか怪しい。だから、何かあったらとにかく大声で叫んで、HNAKC8S21さんのところまで逃げる、というのがまず最初に僕等が取るべき手段だった。

銃の撃ち方を教えてもらった日の夜、僕とHNAKC8S21さんはハッチのある建物の中で、久しぶりにゆっくりと話をした。クルムは薬を飲んで、もう眠っている。HNAKC8S21さんの話では、多分明日からは薬の必要はないらしい。クルムの寝顔を見ながら、僕は下の世界で聞けなかったことをHNAKC8S21さんに聞いてみた。
「HNAKC8S21さんの家族は?」
「いないよ」
「そうなんだ」
なんとなく予想はしていた。家族がいたら、僕等と一緒に逃げるなんてことはしないだろうと思ってた。だから、きっとHNAKC8S21さんは一人なんだって。
「俺は入隊してすぐに、家族と別れた。まぁ、家族と言っても血の繋がりはないし、別々に生きるってだけのことだからな」
僕はお父さんのことを思い出す。強進センターに入ってから、あの特別な射精の日までは、お父さんとは別々に暮らしていた。お父さんに会いたいと思わなかった訳じゃないけど、それほど寂しいって思ってはいなかった。そういうことなのかな、なんとなくHNAKC8S21さんの言っていることが分かった気がした。
「弟とかいないの?」
すると、HNAKC8S21さんは笑った。
「弟がいる方がとても珍しい。子供すらいない家がほとんどなのに」
確かに子供の数はごくわずかだ。そんな中、僕はクルムと出会えた。
「トモロは色々と恵まれてたと思うよ。それが幸せだったかどうかは別として」
「どういう意味?」
「恵まれていたからクルムと兄弟になり、恵まれていたから神の子として扱われ、でも今は、こうして逃げてる。これが幸せかというと、そうじゃないだろ?」
僕は少し考えた。クルムの寝顔を見て、そして答えた。
「案外幸せ……そんな気がする」
「そうか。意外と強いんだな、トモロは」
「そうでもないよ」
僕はHNAKC8S21さんの隣に移る。その太ももに手を置いた。
「僕は……入れて欲しいかも」
毎日アナルに入れられていたあの頃。ほんの少し前のことが、もう何ヶ月も前のように感じる。そして、それを思うと、僕の体の奧の方に何かざわざわしたものを感じるようになっていた。僕はHNAKC8S21さんにもたれ掛かった。
「せっかくあんな生活から逃げ出したんだから、そういうのはもうなしだ」
HNAKC8S21さんは僕の手に手のひらを重ねて、そっと包んで太ももから地面に下ろした。
「もう、あんなことはしなくていいんだから」
僕はHNAKC8S21さんに寄り掛かったまま、体を堅くした。僕の気持ちがHNAKC8S21さんに伝わらない……どうすればいいのか分からなかった。
「……分かり……ました」
それだけ言うので精一杯だった。眠っているクルムのそばに行く。寝顔を見る。クルムの隣で横になる。HNAKC8S21さんに顔を見られないようにしながら、僕は眠ろうとした。体の奥のざわざわが止まらなかった。
 
      


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