取立屋が帰った後、俺は重い気持ちでドアの内側に突っ立っていた。
「兄・・・ちゃん?」
聖人が俺に手を差し出した。その手には、札が1枚握られている。
「ああ、今日の分な」
俺はそれを受け取る。
取立屋からは、来月から返済額を倍にすると言われた。こうして聖人が毎日誰かに買ってもらえるなら、それでもなんとかなるかも知れない。むしろ、俺がアルバイトで稼ぐより、遙かに稼ぎは大きい。だったら、アルバイトなんかしているよりも、俺が客を見つけて聖人が客に抱かれる方が稼ぎに繋がるんじゃないか・・・しかし、毎日そんな客が見つかるかどうか分からない。それが最大の課題だ。
(あの、ようさんが紹介してくれたサディストに、聖人を抱かせれば)
そんな考えが頭をよぎる。しかし、聖人は絶対に拒否するだろう。実際、あの後、ようさんからまたあの男が聖人とやりたいと言っているとの連絡をもらった。そのメールを聖人に見せた途端、聖人は頭を抱えて震えだした。
(さすがにあんなことになるんじゃ、抱かせる訳にはいかないか)
結局、聖人にしても俺にしても、買ってくれる男を見つけるチャンスを増やすことが重要だろう。俺はアルバイトを一つ辞めて、『買ってくれる男を捜す時間』を作ることにした。
ネットでそういうSNSに登録すると、何人かの繋がりは出来た。しかし、そこから先にはなかなか進まない。むしろ、掲示板に書き込む方が早いと言うことに気が付いた。しかし、聖人については年齢を書く訳にはいかない。顔を隠し、見る人が見たらかなり若いんじゃないかって推測出来るような画像をアップしてみると、結構多くのメールが来た。が、そのほとんどは興味本位で画像が見たいだけ、あるいはこの画像の主が本当は何歳なのかを確かめたいだけのようだ。実際に金を払って聖人や俺を抱こうという人はなかなか現れない。そんな訳で、時間だけが過ぎていく。これなら、今まで通り公園で買ってくれる相手を探す方がまだマシだった。
(もう、どうしようもないかもな)
俺は途方に暮れる。このままでは、取立屋に指定された金額どころか、これまでの返済額すら返せそうもない。今更アルバイトを増やしたところで、そんなに大してプラスにならないし、取り立てに来る日には間に合わない。やっぱり、普通じゃないことで稼ぐしかない。もう、こうなったら・・・
「なぁ、聖人・・・嫌なのは分かってるけど、もう一回、あの男に」
俺は聖人に切り出した。聖人はそこまで言っただけで、俺が言わんとしていることを理解した。震える体を小さく丸め、頭を抱え込む。
(やっぱ、無理か)
俺にだって、あの取立屋にもう一度使われるという手がある。が、それは嫌だ。だから、聖人があの男とするのを嫌がるのを非難することは出来なかった。
ようさんにも助けを求めた。しかし、タイミングが悪いことに、ようさんはしばらく海外にいるらしく、事情は理解してくれたしなんとか金を用立てようとしてくれたけど、そのお金を受け取る手段が俺達にはなかった。俺は銀行に口座を持っていない。そんな物を持っていたら、取立屋に口座を押さえられて、俺が稼ぐ金全てを持って行かれるかも知れない。そうならなかったとしても、その口座を利用されて詐欺の片棒を担がされる可能性があるからだ。だから振り込んでもらうことも出来ない。俺達とようさんの繋がりを知っている唯一の人が、あのサディストだ。だから、あの男経由でなら金を受け取ることも出来るだろう。でも、そのためにはあの男に会わなきゃならない。そして、たぶんお金を渡す代わりに聖人を要求するだろう。それもやっぱり出来ない。八方塞がりだった。
そして、あと数日で取立屋が来るというタイミングで、聖人がいなくなった。
初めはいつものように、男に買われに行ったんだと思った。が、その日は帰って来なかった。翌日も、その翌日も帰って来なかった。あのお年玉で買った、出掛ける時に持って行く小さなリュックがなくなっている。確認してみると、下着や服も、何枚かなくなっているようだ。
(逃げたんだな)
俺と一緒にいれば、体を売らさせられ、1日1万稼ぐことを強要される。ひょっとしたら、あのサディストにまた抱かれることになるかもしれない。そんな事になるくらいなら、同じように体を売って生きて行くにしても、一人で生きる方が楽なんじゃないかってことに気が付いたんだろう。俺と一緒に暮らさなければ、あの女の借金なんか気にする必要はないし、一人で自由に生きられる。必要な時には体を売れば良い。
(結局、あの女の借金、弟からも押し付けられたようなもんだな)
不思議と腹は立たなかった。こんな辛い目に遭わずにすむなら俺だって逃げたい。そして、逃げられるもんなら俺だって逃げる。あいつは、聖人は正しい選択をしたんだ、そう思った。
(あの女に捨てられ、弟にも見捨てられたか)
俺は部屋で一人になった。ほんの1ヶ月前は一人が当たり前だった。でも、弟が、聖人が突然現れて、二人で暮らすようになって・・・そして、今、また一人になった。心に入り込んできた虚無感のようなもの・・・それが寂しさだと気付くのに、そして、俺がそんな感情を抱いたことを受け入れるのに少し時間がかかった。
(なんだかんだ言って、やっぱり兄弟だったのか)
一人になって、初めて心の底から実感した。
それからは、なんだかもうどうでも良くなった。
アルバイトも休み、男に抱かれる事もせず、ずっと一人で部屋にいた。
(もう、俺も終わりかな)
あと数日で取立屋が来る。お金は全然足りない。もう、どうにもならなかった。
(殺されたりするのかな)
そこまでするのかどうか分からない。殺したところで一文の得にもならないだろう。
(でも、内臓とか売れるんじゃないのかな)
だとしたら、俺を殺して内臓を売れば、取立屋も損はしない訳だ。
(もう、いいや、それで)
ただ、苦しい思いだけはしたくない。取立屋が来た時に、あいつらの目の前で首でも吊ってやろうか、なんて思う。
(死んだら、あの女のところに化けて出てやる)
そう考えると、少し楽しくなってきた。
(どんな顔するだろうな、あの女)
壊れかけてる、そういう自覚があった。このまま壊れてしまえばいい、そういう思いもあった。翌日、ロープを買ってきた。
取立屋が来る前日、俺は天井の板を剥がして、梁にロープを掛けた。その先を頭が通るくらいの大きさの輪にして、その輪に手を掛けてぶら下がってみた。少し軋んだが、梁は折れたりはしないようだ。これなら、ぶら下がった途端に折れてしまうようなことはなさそうだ。その輪の下にパイプ椅子を置き、その上に立ってみる。少し背伸びすれば、ちょうど輪に頭を通して首のところに掛けられそうだ。
そうやって、椅子に乗ってロープの確認をしている最中、突然ドアが開いた。
「に、兄ちゃん」
聖人だった。聖人は、椅子に乗りロープの輪を持っている俺を見て、あわてて俺の足に抱き付き、俺を椅子から引きずり下ろした。
「何やってんだよ、兄ちゃん」
俺と一緒に床に倒れ込んだ聖人は、俺の服を掴み、揺さぶった。
「お前・・・」
「自殺なんか駄目だよ、兄ちゃん」
俺は混乱した。
(逃げた筈じゃないのか?)
床に転がって、聖人の顔を見上げ、その奧に見える天井からぶら下がったロープを見る。
(こいつが来て、いなくなって、俺は・・・)
なんで今、俺はこんなに辛いんだろう。
少し前までは、ここまで辛くはなかった。そりゃあ、いっぱいいっぱいの生活をしていた。でも、聖人が突然現れて、なんだか少し気持ちが楽になっていたように思う。そして、その聖人が俺の前から消えて、俺は前より辛くなった。そんな俺を見放した聖人が今、俺の目の前にいる。
「何なんだよ・・・お前は」
急にふつふつと怒りの感情がわき上がった。
「逃げ出したくせに、偉そうに何なんだよ!」
聖人を押し倒した。その胸の上に馬乗りになる。
「お前のせいで、俺、俺は・・・」
拳を聖人の顔面に叩き付ける。一度殴ってしまうと、もう身体が俺の言うことを聞かなくなった。あの女の顔もちらつく。あの女が聖人にだぶって見える。俺は理性なんて面倒くさいものを捨て去った。感情に身を任せ、気持ちを、拳を叩き付けた。あの女と聖人に。
気が付くと、聖人の頬は腫れ、鼻や口から血を流していた。皮膚が裂け、血が滲んでいる。それでも俺は止めなかった。
「借金押し付けやがって、俺を捨てやがって」
そんなことを叫びながら聖人を殴りつける俺。心の中に、理性が戻ってきた。
(別に聖人が借金を押し付けた訳じゃないだろ?)
心の中で理性が言う。
(こいつは聖人だ。怒りをぶつける相手が違うだろ)
確かにその通り。でも、俺の怒りは収まらない。理性を無視して聖人を殴り続ける。もはや何に対しての怒りなのかもよく分からなくなっていた。ただ、衝動だけで殴り続けた。拳が痛む。俺の手もきっと皮膚が裂けてるんだろう。血に染まる拳。でも、その血が俺の血なのか、聖人の血なのか分からない。聖人が何か言っている。俺は聞かなかった。それどころか、その口にタオルを詰め込み、更に別のタオルで猿ぐつわを咬ませる。頭を床や壁に叩き付ける。何度も何度もそれを繰り返していた。壁の白いクロスに赤い血の痕が、まるでデカい筆で書き殴ったように何本も鮮明に、時にはかすれながら描かれる。床も同じだ。血で足が滑る。体がよろけ、俺は聖人と一緒に床に転がった。
ぐったりとした聖人の横で、俺は荒い息をしていた。怒りはまだ収まらない。そもそも何に対する怒りなのか理解も出来ていない。ただ、感情は高ぶったままだ。まだ殴り足りない。でも、体がついていかなかった。心も体も疲れ果てていた。聖人は気を失っているのか、全く動かない。俺はその横で仰向けになる。このまま死んでしまいたかった。
そして、そのままその日を迎えた。
「金は出来ませんでした」
俺は取立屋に言った。今日は一人だけだった。
「ふうん、それで?」
相変わらず少しにやけた表情だ。
「それで、どうするのかな、お前は」
男が部屋の中を覗き込む。
「なに、喧嘩でもしたの?」
部屋の壁の赤黒い血の痕、そして聖人の様子に気が付いたようだ。いまだに猿ぐつわを嵌められたまま、ぐったりとしている。目は覚ましていた。俺達を見て少し体を動かしている。死んでる訳じゃない。
(もういいや)
その瞬間、俺の中の迷いや、見栄、体裁、あるいは感情・・・そういうもの全てが吹っ切れた。
「あれ、本当に買ってくれますか」
俺は男に尋ねた。
「買う? そういうのじゃないんじゃなかったっけ?」
前に引き取ってやるって言われた時の俺の言葉だ。
「いいんです、もう」
男が家に上がり込んだ。聖人の近くに行き、そこでしゃがみ込む。
「あ〜あ、こんなに腫らしちゃって」
俺を見る。
「お前がやったんだな。お前しかいないもんな」
俺は頷いた。
「でも、使えるでしょ」
「まあな」
男は聖人の服を捲り上げ、体を確認しているようだ。
「古い傷は、虐待か?」
男が聖人に聞く。男の背中の向こうで、聖人は何か反応しているようだ。
「ふん、まあいいだろう」
そして、振り向いた。
「こいつを売るってことがどういうことか、分かった上で言ってるんだよな」
少し心が震えた。でも、そんな感覚を頭の隅に追いやる。そして、俺はきっぱりと首を縦に振った。
「分かった、買い取ってやる。今のお前の借金と同じ金額でな」
男が聖人の方を向く。
「お前の兄ちゃんはああ言ってる。いいんだな?」
聖人の顔は男の背中で見えない。どんな表情でどんな反応をしているのか俺には分からない。しかし、男は聖人の体を抱え上げた。そのまま俺に言った。
「お別れはしなくていいのか?」
俺は首を横に振った。
「今生の別れになるかも知れないぞ」
それでも俺は首を横に振る。
「そっか」
それだけ言って、聖人を担いだまま男は家から出て行った。しばらくして一人で戻って来る。
「ほら、証文だ」
男が紙を渡してくれた。間違いなく、俺の母親がサインした、借金の証文だ。
「あいつを買い取る方については、証文なんてなしだ。分かるだろ?」
俺は頷く。人身売買だから、証拠になるようなものは残さないのは当たり前だろう。
「これで借金はチャラだ。その代わり、あいつはもらっていく。お互いそれで後腐れなし、終わりだ。いいな?」
俺は頷いた。
「で、あれは何なんだ?」
男が天井からぶら下がった、ロープで出来た輪を指差した。
「ああ、それは別に・・・飾りですよ」
俺はぎこちない笑顔を作って言った。もちろん、男が帰った後、そのロープは天井から外し、ゴミ袋に突っ込んだ。
本当に俺は一人になった。
でも、今度は開放感があった。
(もう、借金はないんだ)
俺は拳を握りしめ、腰を少し屈めて、そして握った拳を胸の前で小さく振った。
「終わった・・・」
初めは小さな声で、でも、何度も繰り返すうちに声が大きくなる。やがて、俺は笑いながら叫んでいた。
「終わったぁ!!!」
大声で、何度も繰り返し笑い、繰り返し叫んでいた。
3ヶ月もしない間に、俺はアルバイトを辞め、とある会社に就職した。それなりの給料ではあったが、けっこうな残業。でも、あの過酷なアルバイト生活をこなしてきた俺にとってはどうってことはない。むしろ、要領よく立ち回れば仕事はそれなりにこなせるし、それで朝から夜中までアルバイトしていた頃より良い給料が手に入るのだから、何も言うことはない。
ようさんとは相変わらず、月に1〜2度ほど会っていた。最近は体を売るというよりも、セックスフレンドという関係になっていた。聖人がいなくなったことについては、本当のことは言っていない。ある日突然出て行って、戻って来なくなったと言うと、ようさんは納得してくれた。
それから更に数ヶ月ほど経った夏のある日、あの取立屋が急に家にやって来た。一瞬ドキリとはしたが、証文は返してもらっているし、何かあったら警察に連絡すればいい。そう思ってスマホを握りしめながらドアを開く。
「まともに暮らしてるようだな」
まず、俺の家を見渡してからそう言った。あの頃にはなかった液晶テレビやノートパソコンが置いてある。
「借金なくなったので」
そう短く答える。
「で、今日はなんの用ですか?」
俺は早く用件を聞き出して帰って欲しかった。
「ああ。お前のかわいい弟が立派になった姿を見せてやろうかと思ってな」
そして、取立屋は封筒を差し出した。
「中に入ってる招待状に書かれた日時、場所に行けば、お前の弟に会える」
俺は封筒を受け取らずに言った。
「もう俺には関係ないことですから」
「お前は冷たい奴だなぁ」
そして、取立屋は俺の手にその封筒を押し付けた。
「最後に1回くらい会ってやれ」
「会いません。もう関係ないですから」
俺がそれを言い終わる前に、取立屋は家から出て行った。玄関に封筒が落ちていた。
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