「七瀬さん」
誰かが僕を呼んでいる。
「七瀬さん、聞こえますか」
女の人の声だ。
「聞こえたら、手を握って下さい」
その声が言う。何なんだろう、手を握れなんて。僕の手に何かが触れている。それが手なんだろうか。それを握ればいいんだろうか。僕は手に力を込めてそれを握ろうとした。握った。握ったつもりだけど、なんだか手に力が入らない。手が思ったように動かない。
「七瀬さ〜ん」
また声がした。僕はもう一度手を握ろうとした。
「指が動きました」
「先生を、先生を呼んで」
なんだか急に騒がしくなる。なんなんだ、何が起きてるんだ。
ドアが開くような音。閉まるような音。なんだかバタバタしている感じ。
(なんだよ、騒がしいなぁ)
目を開けようとした。けど、開かない。
「七瀬さん、もう先生来られますからね」
耳元で声がする。
「七瀬さ〜ん」
今度は男の声だ。まぶたを捲られ、何か光を当てられる。
「聞こえますか、七瀬さん」
男の人が言った。
「七瀬さ〜ん」
声が遠くなった。なんだか酷く疲れてる。やがて、何も聞こえなくなった。
「七瀬さん」
それから何回か、いや、何十回か僕は名前を呼ばれ、手を握られ、目に光を当てられ、体を触られたりした。いや、はっきりそれが分かった訳じゃない。なんとなく、そんな感じがしただけだ。それが何度も何度も繰り返されるうちに、少しこの状況が理解出来るようになってきた。それが理解出来るようになってしばらく経って、やっと僕は目を開けられるようになった。
目を開いてみる。最初は何が見えているのか分からなかった。ぼんやりとしてて、色もよく分からない。
「七瀬さん」
看護師さんは一日に何度も、そして男の先生も一日一回は僕の名前を呼んだ。
「返事出来ますか?」
もちろんだ。僕は声を出そうとした。でも、出なかった。なんだか喉の奥が塞がってる感じで、声にならない音しか出て来なかった。
「大丈夫ですよ」
先生の声がする。
「目は開けられますか?」
僕は目を開く。前よりは少し見える気がする。誰かの顔が目の前にある。
「分かりますか?」
ぼんやりと顔があるのは分かる。この場合は「分かる」でいいのか、「分からない」なのか、どっちなんだろう。僕は目を開けたままそのぼんやりとした顔を見つめた。
そんな日がずっと続いた。僕に分かるのは、ここは病室で、僕は入院しているらしいということだ。
入院って・・・・・
あの時のことを思い出した。
スマホの緊急地震速報。そして、地鳴りのような音。揺れ。
でも、思い出せるのはそこまでだ。
「自分の名前、言えますか?」
目が覚めてから何日位経ったんだろう。朝とか夜の感覚がない。体も全然動かない。目もあんまりよく見えないし、話すことも出来なかった。それが少しずつマシになってきて、ようやく見えるようになって、話せるようにもなった。たぶん、何ヶ月も経っている気がする。
先生はけっこう若い人だった。その先生が僕に名前を尋ねた。
「え・・・七瀬、陸斗です」
「七瀬さん、ここに運ばれる前のこと、覚えていますか?」
それを聞かれる前から、僕はあの時のことを少しずつ思い出していた。僕の家で、エビラや後輩君と一緒にいて、家が揺れて、何かに背中を押されて・・・
「地鳴りがして、家が揺れて・・・それから」
「無理に思い出そうとしなくても大丈夫ですよ」
先生が僕に言う。
(だったら覚えてるかなんて聞くなよ)
そう思った。でも、多分、覚えているかどうか確認するのは必要なことなんだろう。
「あの」
少し聞くのが怖い。でも、聞きたい。
「僕はどうなったんですか?」
先生が僕を見下ろす。
「あなたは崩れてきた天井の下敷きになって、気を失った状態で救助されてここに運び込まれたんです」
少し顔を近づける。
「でももう大丈夫ですからね」
そして、先生は看護師さんに何かを伝えて病室から出て行った。
(天井の下敷きか)
そういやあの時、背中を押された気がする。それって、背中に何かが落ちてきたって事なんだろうか。あんまり覚えてないし、まだ頭の整理がついていない。
思い出した部分もあれば、思い出せてないところもある。たぶん、思い出せてないところの方が多いだろう。気になることはたくさんある。聞きたいこともたくさんある。それは分かってるんだけど、何を聞きたいのか全然分からない。とにかく頭の中がぐちゃぐちゃだった。
そしてなにより、聞くのが怖かった。
何度も夢を見た。悪夢。その夢も断片的にしか覚えていない。
体のほうもそんな感じだった。気を失っていたからなのか、それとも大きな怪我をしているのか、体が思うように動かない。最初はあの時のように指を動かすのが精一杯だった。寝返りも打てず、体も起こせず、僕の世界は目の前にある天井だけだった。
看護師さんが僕の体をマッサージしてくれたりして、ようやく体の感覚が戻ってくるのに2週間くらい。そこから体を起こせるようになって、車椅子で最初は看護師さんが押してくれて、やがて自分で少しは移動出来るようになるのに3ヶ月。それくらい時間が経ったころ、僕はようやく決心した。
「七瀬さん、調子はどうですか?」
僕はリハビリのこととか先生に話をする。もちろんこの先生は僕の主治医だからそういうことは知っている筈だ。でも、ちゃんと話を聞いてくれる。
「そうですか。頑張ってますね」
そういって笑顔を見せてくれる。なんだか少しほっとする。
「あの・・・」
先生が僕の顔を見る。
「僕はどうなったんですか?」
少し声が震えている。知るのは怖い。でも、もう知らないでいるのも無理だ。
「そろそろ・・・あのときなにが起きたのか、お話しするべきかも知れませんね」
先生が僕の手を握った。
「七瀬さんにとっては、辛い話になると思いますが」
「大丈夫です。なにが起きたのか、教えてください」
僕は言った。
僕が病室で目覚めてから半年くらいが過ぎていた。その間、僕のお母さんもお父さんもお見舞いには一度も来なかった。エビラも、他の友達も誰一人来なかった。それでだいたい察しが付いていた。あの悪夢が、夢ではなくて実際にあったことなんだろうって。
「分かりました」
先生は病室の扉を閉めた。病室には僕と先生の二人きりだ。先生がベッドの僕の頭の横に座る。僕の手を握る。
「あの日、大きな地震が発生しました。過去に類を見ないような巨大地震で、その地域の建物はほとんどが倒壊しました。君がいた家も」
先生が言った。
「君は2階の部屋にいた。そこで、家が倒壊し、崩れた天井や屋根の下敷きになった」
あの背中を押されたって思った時だろう。
「あの、お母さんとお父さんは」
僕は気になっていたことを尋ねた。先生は何も言わずにただ首を左右に振った。
「そうですか・・・やっぱり」
全くお見舞いに来ないということは、たぶんそういうことだろう、そう覚悟は出来ていたつもりだった。だけど、気が付くと涙が溢れていた。
そんな僕を、先生は抱き締めてくれた。
それから何度か先生はその時のことを僕に話してくれた。僕がこうして生きていることは奇跡に近いことかも知れない、ということも感じた。ということは、あの時一緒にいたあの二人は・・・
それについては聞かなかった。いや、聞けなかった。誰もあの二人の話はしない。ということは恐らくそうなんだろう。分かっていた。だから、それを確認するのは怖かったし、それを誰かの口からはっきり言われたら、僕はまともではいられなくなる気がしていた。
でも、いつかははっきりさせる必要があることも分かっている。前に進む為だ。だから、退院するまでには全部ちゃんとしないと。
体が治るまでは時間が掛かっていた。まるで自分の体じゃないみたいに動かない。手も足もそうだ。リハビリ室のバーに捕まって立つだけでも時間が掛かるし、少ししか立っていられない。看護師の人は根気よく僕のリハビリに付き合ってくれる。辛いリハビリ、もう投げ出してしまいたいと思うこともあるけど、先生も、看護師さんも励まして支えてくれていた。
やがて、少しずつ体も動くようになっていった。
夜、夢を見た。地震の前の夢。エビラと僕の夢。僕の膝の上に座ったエビラ。エビラは下半身裸で、ちんこが勃起していた。僕はそれを握って扱く。エビラのちんこが熱い。気持ち良さそうな声。僕のちんこも硬くなっている。
目が覚めたとき、僕は勃起したちんこを握っていた。病室で気が付いてから、勃起したのは初めてかも知れない。それを握りしめて、夢の中でエビラのちんこにしたように、それを扱いていた。
久しぶりのオナニー。ちんこはがちがちになっている。扱く。それは前と同じように気持ち良く感じる。
(オナニーはリハビリいらないんだな)
なんだか少し嬉しくなる。扱く。夢の中の感触を思い出しながら扱く。
そして、違和感に気が付いた。
僕のちんこ。これまでもたぶん何百回と握って扱いてきただろう。今も実際にちんこを握っている。
(なんか、違う)
僕は布団をはねのけて、ちんこを見た。見慣れた自分のちんこ。その筈。
(でも)
違う。何かが違う。
(太い?)
握った感触。
(こんなに太かったっけ?)
ちんこから手を離す。顔の前で手を軽く握る。
(僕のちんこは)
僕の記憶の中のオナニーを思い出す。その時の太さで手を握ってみる。そして、またちんこを握る。
(やっぱ、太い)
なんだろう。ひょっとしたら、気を失ってから今日までの間にちんこが太くなったのかも知れない。体が成長するように、ちんこだってきっと成長するんだろう。
だけど、それじゃ納得出来ない。
枕元の電気を点けて、ちんこをよく見てみる。皮を引っ張って剥いてみる。ちんこはちんこだ。もちろんそうだ。でも・・・
目を閉じて自分のちんこを思い出す。
(こんなに太くなかったし、その、もうちょっと小さくなかったっけ?)
記憶違いかも知れない。だって、実際に今、僕のちんこはこうなんだから。
(なんか、変)
違和感。また握る。扱く。
(気を失ってる間、なにがあったんだ)
自分のちんこが自分のものではないような不安。それでも・・・
(ああっ)
「イくっ」
小さな声を出した。そして、僕は射精した。その瞬間、痛いような気持ち良さを感じた。
精液が僕のお腹の上に飛び散っていた。布団にも少し垂れている。それらを慌ててティッシュで拭き取って、ゴミ箱に捨てる。
(なんだろう、変な感じ)
でも、オナニーが終わるとどうでも良くなった。ひさしぶりのオナニーの感触、気持ち良さ、そして疲労感。僕はそのまま眠ってしまった。
「七瀬さん」
その声で目が覚めた。先生が病室に来ていた。
「あ、先生」
「もう、体も元気になったってことかな?」
先生が言った。何のことか分からなかった。けど、すぐに気が付いた。
「あっ」
僕は昨日の夜、オナニーをして、そのまま、つまりパジャマのズボンとパンツをずり下げたまま眠ってしまったんだ。そんな下半身裸の状態を、先生にバッチリと見られている。
それに、臭い。久しぶりのオナニーだったから、あの臭いがはっきりと漂っている。
僕は真っ赤になった。
「気にしなくてもいいよ。ただ、女性の看護師さんが来る前に片付けないとね」
先生が笑った。
「す、すみません」
慌てて布団を引っ張り上げる。
「ちゃんと出来た?」
「えっ?」
「オナニー。痛みとかなくちゃんと射精出来た?」
「あ・・・はい」
僕はますます赤くなりながら、小さな声で答えた。
「そうか、良かった」
その時、僕はあの違和感を思い出した。
「あ、あの」
「ん?」
そんなことを先生に話しても何にもならないのに。
「どうしたんだい?」
先生は優しい顔をする。
「あの・・・」
やっぱり言えない。
「気が付いたのかな。じゃ、それについても話す時が来たのかな」
また先生が僕の頭の横に座った。
「あの地震の時、君の体は瓦礫に押しつぶされてしまったんだ」
先生が話し始めた。
「頭は無事だった。でも、体はもう・・・」
僕は自分の体を見た。
「でも、治してくれたんですね」
先生は首を横に振る。
「君の体はもう・・・」
僕は先生を見つめた。
「その時、もう一人、君のすぐ近くで亡くなった人がいた。でも、その子は体は損傷を受けていなかった」
あの時、僕と一緒にいたのは、エビラと後輩君の二人だ。
「まさか、この体って」
「君の損傷を免れた頭部を、その子の損傷を免れた体に移植したんだ。君達と一緒にいた、中原誠也君の体にね」
ショックを受けた。いや、ほっとしたのかも知れない。僕は後輩君の体に移植されたんだ。だから、僕のちんことはちょっと違ったんだ。
「ってことは、後輩君は」
「中原は頭が潰れて即死だった」
だから・・・他人の体だったから、なかなか思うように動かなかったのか。だから、リハビリに時間が掛かったのか。そのお陰で僕は生きているのか。
「あ、あの・・・・」
僕は顔を伏せた。聞きたくない。でも、いつか聞かなきゃならない。
「エビラは・・・エビラはどうなったんですか?」
先生は僕を見た。
「海老原君は、どうなったんですか?」
僕は、顔を上げて先生を見つめた。涙が溢れ出ていた。
「やっぱり分かんないかぁ」
先生が笑った。
(なんで笑うんだよ)
先生の笑顔に怒りがこみ上げる。震える声で僕は叫んだ。
「エビラが、僕の親友が死んだのに、なんで笑うんだよ!」
すると、先生が言った。
「ななちゃん、僕だよ、海老原だよ」
そして、先生は僕を抱き締めた。
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