「おい、幸吉、和吉」
眠っている少年達の頬を男が叩いた。
「ん・・・」
まず、目を開いたのは兄、幸久の方だった。次いで、弟、和久も眠そうに目を擦る。
「早く起きろ」
彼等の頬を男が掴み、その顔を揺さぶる。
「幸吉、和吉、早く顔を洗ってこい」
まだ少し眠そうな兄弟は、二人揃って洗面所に行く。そして、気が付く。
「何て呼ばれてた?」
彼等の後ろから、さっきの男が洗面所に入ってきた。
「幸吉と和吉だ。お前等の名前だ」
「でも、僕達」
和久が言いかけた。
「一番下の使用人なんて、丁稚みたいなものだ。だから、幸吉と和吉で十分だ」
そして、彼等に服を手渡す。白い清潔そうな、でも、木綿の粗末な服だった。
「それを着ろ。洗濯は自分達でする、分かったな?」
幸久は、その服を受け取り、広げてみる。これまで、彼等は決して裕福ではなかった。が、これほど粗末な服を着たことはなかった。ちらりと男の方を見る。
「なんだ、不満か?」
和久も同じように広げてみた。
「子爵様は、こんな服は着られないか?」
幸久は慌てて首を左右に振った。が、男は彼の手から服を奪い取る。
「お前のような奴はこれで十分だ」
男はそう言って、洗面所の手ぬぐいを幸久に投げつけた。
「早く着替えろ」
和久は慌てて服を脱ぎ、その服に着替える。しかし、幸久は手ぬぐいを持ったまま動かない。
「何してる。早く着替えろ」
男が幸久が着ていた服の首の部分を掴んで左右に引き裂いた。
「あっ」
男は容赦なく幸久から衣服を剥ぎ取り、全裸にする。そして、紐を腰の辺りに巻き付けた。
「ほら、寄こせ」
幸久に手を差し出す。持っていた手ぬぐいを男に渡す。男はその手ぬぐいを二つ折りにし、幸久の腹の部分の紐に通した。
「ほら、これがお前にはお似合いだ」
二つ折りの手ぬぐいが、幸久の下腹部を隠している。しかし、それはただ、その部分の前にあるというだけだ。風でも吹けば、容易に捲れ上がるだろう。しかも、尻は丸出しだ。
「あ、あの、すみません、さっきの服を・・・」
幸久は小さな声で男に言う。
「俺の言うことを聞かなかったのはお前だ。お前の服はこれに決まりだ」
「で、でも・・・」
「俺に逆らうのか?」
男が拳を握り、腕を肩の辺りまで持ち上げた。つまり、殴るぞ、という意思表示だ。
「俺はお前等の教育係を仰せつかった熊田だ。俺の言うことを聞けないなら、そのまま放り出してもいいんだぞ」
「兄様・・・僕の服を」
和久が小さな声で言い、服を脱ごうとした。
「そんなこと、誰が許した?」
和久の動きが止まる。
「なんなら、それもなくしてもいいんだぞ」
熊田が幸久の股間を隠している手ぬぐいを顎で指し示す。
「・・・分かりました」
幸久は小さな声で言う。ここに来てからまだ1日も経っていない。ここで使用人になると決めてからまだほんの十数時間、そんな彼等への最初の洗礼だった。
「これからお前等に仕事を言いつける。来い」
熊田が背を向けて歩き始めた。幸久と和久は、慌ててその背中を追いかける。男は屋敷の中を歩く。
「そうだ、ちょっと寄り道する」
そして、熊田が入ったのは、少し広めの質素な部屋だった。そこでは熊田と同じような格好をした男女が10人以上、食事をしていた。幸久と和久は、その部屋の入口のところで立ち止まり、中に入るのを躊躇する。熊田はその部屋の真ん中に進み、そこにいる人達を一回り見渡して、大きな声で言った。
「皆さん、昨日から使用人となった、幸吉と和吉です。私の下で働きますので、よろしくお願いします」
そして、彼等を手招きする。和久はともかく、幸久は下腹部を手ぬぐいで覆っただけの格好だ。足が動かない。
「早く来い」
しかし、逆らう訳にも行かなかった。放り出されたら彼等に行く場所はない。ここで生きるしか彼等に選択肢はない。幸久はゆっくりと足を進める。その後ろに和久がぴったりと寄り添う。少しでも幸久の背後を隠すように。
「並べ」
しかし、その部屋の真ん中で二人は並ばされる。彼等の後ろで食事をしていた人達に、幸久の尻が丸見えだ。
「幸吉、挨拶だ」
熊田が幸久に言った。
「ぼ、僕は幸久です」
小さな声で男に言う。
「『私』だ。それに、お前は昨日からここの使用人になったんだろ? 使用人の一番下、下働きの下働きなんだから、幸吉で十分だ」
部屋のどこかから、小さな笑い声が聞こえる。こんな格好で下働きと言われ、幸吉と呼ばれる。
(こんな屈辱を受け入れなければ生きて行けないのか・・・)
幸久は下唇を噛む。そして、顔を上げた。
「わ、私は幸吉です。よろしくお願いします」
そして、深々と頭を下げる。
「兄様・・・」
和久が呟いた。幸久は、いや、幸吉は体を起こした。が、顔は伏せたままだった。
「お前もだ」
次は和久の番だ。
「私は、か、和吉です。よろしくお願いします」
和久も頭を下げた。
「二人とも、顔を上げろ」
熊田に言われ、幸吉と和吉は顔を上げた。和吉はちらりと幸吉の横顔を見る。その目が潤んでいた。
「来い」
熊田はその場にいる人達の座るテーブルを順に回る。テーブル毎に彼等に挨拶をさせる。もちろん、幸吉と和吉に、だ。順番に、中には幸吉の手ぬぐいを捲り上げる人もいる。しかし、幸吉はそれを止めることもできない。ただ、彼等の前ではまっすぐに、手を体の横に付けて立っていることしか出来なかった。
最後に、また二人は深々と頭を下げさせられる。こうして恥辱の時間が過ぎていく。しかし、それはまだ始まったばかりだった。



「今日のお前達の仕事はこれだ」
熊田は幸吉と和吉に大きなカゴを手渡した。彼等は庭の奥にある、池の畔に立っていた。
「そのカゴでこの池のゴミをすくい取って捨てる。ただそれだけだ。何も難しいことはない」
池の水面に、落ち葉が何枚も浮かんでいる。とても数えきれるような数ではない。二人は池の畔に立ち、カゴを持った手を伸ばしてみた。が、とても真ん中までは届かない。幸吉が頑張って腕を伸ばしても半分にも届かない。
「何してる。池に入るんだ。ちょうどいいだろ、その格好は」
季節は秋だ。まだ凍えるような寒さではないが、水は冷たい。
「ほら、早くしろ」
熊田は腕組みして立っている。幸吉と和吉が顔を見合わせる。そして、恐る恐る、足を水に浸けた。
(冷たいっ)
そう思ったが、口には出さなかった。幸吉は我慢して水の中に入る。カゴを池に沈め、落ち葉をすくい上げる。何度かそれを繰り返し、カゴにある程度落ち葉が溜まると、畔で待っている和吉にカゴごと渡す。そして、和吉が持っていた空のカゴを受け取る。また池の中に入る。その間に和吉は幸吉がすくい取った落ち葉をカゴから出し、小さな山を作る。
「なかなか上手いじゃないか」
熊田が声をかける。この家に来て、初めて褒められた。悪い気はしない。更に池の真ん中の方に進む。
「ああ、そうだ」
熊田が言った。幸吉は池の真ん中近くで男の方を振り返った。その時だった。急に足が池の底に着かなくなる。幸吉はカゴを持ったまま、仰向けに池の中に倒れ込んだ。
「兄様!」
和吉が池に駆け込んだ。が、すぐに幸吉は立ち上がる。
「そこ、少し深くなってるから気を付けろ。まぁ、もう分かってるな」
幸吉はずぶ濡れのまま、水に浮かんでいたカゴを捕まえる。せっかくすくい取った落ち葉はほとんどまたカゴから出てしまっている。
「ほら、グズグズするな」
またカゴですくい取る。和吉に渡す。空のカゴを受け取る。それを繰り返し、少しずつ池のゴミをすくい取っていく。
「これから毎日、ゴミをすくい取るんだ。それがお前達の朝一番の仕事だ」
熊田が言った。池から上がった二人は、体をすくめ震えている。
「なんだ、寒いのか」
「はい」
そう答える幸吉の声は震えている。
「来い。汚れた体で屋敷の中の仕事は出来ないからな」
そして、二人は風呂場に連れていかれた。



使用人用の風呂場は、質素な作りではあったが、広い湯船がある大きなお風呂だった。が、もちろんこんな時間に湯は張られていない。しかし、たらいに湧かした湯を注ぎ、それで体を洗うことが出来た。暖かい湯が二人の体と心を解していく。
幸吉は、右足首を少し気にする様子を見せる。さっき、池の中で軽くひねったようだ。
「兄様、大丈夫でしたか?」
「ああ。大丈夫だ」
幸吉はそう答える。実際、大したことはない。それよりも、今は気になることがある。
「あれを毎朝しなくちゃいけないなんて・・・」
幸吉は呟いた。幸い、たらいの湯を浴びている和吉には聞こえなかったようだ。まだ今の季節はマシだ。これから冬になっても、あの仕事をやらなければならないなら、かなり過酷だ。
「ほら、いつまで洗ってるんだ」
風呂場の外から熊田の声がした。
「はい、今行きます」
幸吉はそう答え、たらいのお湯を捨て、軽く片付けて風呂場から外に出た。
「池の掃除の後は、毎回湯を使わせてやる。次の仕事の前に、必ず体をきれいにするんだ。分かったな?」
二人同時にはい、と答えた。そして、服を・・・と言っても、幸吉の場合は紐と手ぬぐいだが・・・を身に着けようとした。が、置いておいた筈の場所からなくなっている。見ると、和吉の服もなくなっているようだ。
「あの、服が」
和吉が言いかけた。
「ああ、あの汚れたのは洗いに回した」
ということは、新しい服をもらえるのだろう。二人は裸のまま、熊田の前でそれを待つ。
「なにしてるんだ、お前等」
しかし、熊田は何も持っていない。回りを見ても、新しい服などない。
「あの、新しい服を」
「そんなもの、あるわけないだろ」
二人は顔を見合わせた。
「でも、服がないと・・・」
「服なんてなくても仕事はできるだろ。ほら、行くぞ」
熊田が背を向け歩き出す。つまり、二人とも全裸で仕事をしろ、と言うことだ。
「待って下さい」
幸吉が大きな声を出す。
「裸で仕事なんて、いくら何でも」
「いくら何でもなんなんだ? お前等みたいなまだろくすっぽ働いてもいない奴等が、替えの服なんてもらえるとでも思ってるのか?」
「でも」
そう幸吉が言いかけたとたん、拳が幸吉の頬に飛んできた。
「俺の言うことが聞けないってのなら、今すぐそのままここから出て行け」
床に倒れた幸吉の腕を掴んで引き起こす。そのまま体を引きずり、裏口の方に引っ張っていく。
「兄様!」
和吉が追いかける。使用人達がいる部屋の前を通り、何人かとすれ違い、そして裏口の扉の前に立つ。熊田が扉を開ける。
「お前等のような奴には務まらないんだよ」
そして、幸吉の体を投げるように放りだした。
「兄様!」
和吉が地面に横たわった幸吉に駆け寄る。彼等のすぐ後ろで、裏口の扉が閉まった。
「兄様、大丈夫ですか?」
幸吉の膝がすり切れ、血が滲んでいる。幸吉は立ち上がり、裏口に向かった。
「もう、口答えしません。許してください」
扉の前で頭を下げる。
「兄様・・・もう、やめようよ」
和吉がその腕を掴んで言った。が、幸吉はそれを振り払う。
「他に行くところはありません。どうか許してください」
幸吉は跪いた。そして、地面に手を突き、頭を下げる。生まれて初めての土下座だ。しかも、全裸でだ。
「兄様」
「お前も許しを乞うんだ」
幸吉は和吉の腕を掴み、引っ張った。渋々、という感じで和吉も幸吉の横に座り、頭を下げた。
「どうかお許しください」
二人してそのまま頭を下げる。何分もそのままだ。やがて、扉が開いた。
「今回だけは許してやる。もしまた逆らったりしたら、その時は」
熊田がそこまで言ったところで、幸吉が叫ぶように言った。
「もう二度と逆らいません。お許しください」
その様子を和吉は頭を下げたまま横目で見ていた。
(あの、兄様が・・・松岡家の嫡男として、いずれは子爵を継ぐ筈だった兄様が・・・)
「そんな格好でそんなところにいられると、当家の恥さらしだ。ほら、入れ」
「ありがとうございます」
幸吉が、もう一度、地面に擦りつけるように頭を下げる。
(兄様・・・)
和吉の心の中に、何か湿ったような気持ちが生まれていた。
 
      


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