僕の先生

それ以来、僕は自分の部屋から一歩も出られなくなった。何を見ても先生を思い出す。この部屋で先生に教えてもらったこと。部屋の前の廊下で、親が見ていない隙にキスしたこと。先生と一緒に玄関を出てその背中を見送ったこと。その背中に抱き付いた時の先生の体温、その肌の感触、頭を撫でてくれたあの手・・・全てがもう、二度と・・・
学校に行こうという努力はした。先生に家庭教師になってもらって、一緒に勉強して合格した学校なんだから。でも、やっぱり部屋から出ることが出来なかった。


そして、1ヶ月が過ぎた。


ようやく、家に誰もいないときなら部屋の外には出られるようになった。誰かいると、先生を思い出す。だから、誰もいないときにしか部屋から出ることが出来ない。親も理解はしてくれた。だから、お母さんも毎日どこかに出掛けて、僕が部屋から出られるようにしてくれた。何をしに出掛けているのかは知らないけど、昔、ピアノの先生をしていたらしいから、たぶんそういうことをまたしてるんじゃないかと思う。
「きっと、心配だろうな」
心配しながらも、僕を一人にしてくれている。少しずつでも部屋から出られるようになって、次は家から出られるようになって、そして、元の生活に戻れるように考えてくれているんだろう。それはよく分かってる。よく分かってるけど・・・

そんなある日、僕は自分の部屋で、窓のカーテンの隙間からちらっと外を見た。別に特別な何かがあったわけじゃない。ただ、なんとなく。そして、そこに彼が立っていることに初めて気が付いた。
その子は小学生くらいの男の子だ。黄色いダウンジャケットを着て、手をポケットに入れ、白い息を吐きながら寒そうに肩をすぼめているように見える。僕は時計を見る。今日は水曜日。時間は11時前だ。つまり、普通に学校がある筈の時間だ。それなのに、その子は家の前の道に立って、僕の部屋のこの窓の方を見ていた。
(たまたまだ)
なんとなくドキッとしたけど、僕はそう思うことにした。たまたま何かの都合で学校に行かなかったか早引きした子が、たまたま前の道を通って、たまたま僕の家の方を見上げて、たまたま僕の部屋を見ていたときに僕が見ただけだ。そう思った。
でも、なんとなく気になった。一人でお昼を食べて、また窓から外をそっと覗いてみた。その子が立っていた。次の日も同じだった。気が付くとその子はそこに立って、僕の部屋の窓を見上げていた。それがずっと続くうち、僕はその子のことが気になり始めた。

その子は毎日毎日そこに立って、僕の部屋を見上げていた。僕はその子に気付かれないようにカーテンの隙間から時々外を見た。
(今日もいる)
少し怖い気がする。なぜ、毎日そこに居続けるのか。なぜずっと僕の部屋の窓を見ているのか。僕も毎日気になった。そして、毎日カーテンの隙間から彼を見ていた。
ある日、家のインターホンが鳴った。なんとなく部屋でうとうとしていた僕はびっくりして飛び起きた。思わず窓の外を見る。あの子はいなかった。またインターホンが鳴る。僕は慌てて玄関に向かう。
インターホンの受話器を取り上げると、玄関の様子がモニターに映った。
「えっ」
あの子だ。あの子が玄関の外にいる。僕の身体に鳥肌が立つ。僕は慌ててインターホンの受話器を元に戻した。モニターが消える。でも、またすぐにインターホンが鳴る。
「だ、誰」
受話器を取った。声が震えている。
「ちょっと、話したいんだけど」
その子が言った。なんとなく違和感を感じる。その子が誰なのか僕は知らない。普通、知らない相手の家に行ったら、まず名乗るものだ。でも、その子は名乗らなかったし、なんとなくため口のような口調だ。
「誰?」
「ここ、開けてくれない?」
その子は僕の質問を無視した。
「どこの誰かも分からないのに開けるわけないだろ」
そう言って受話器を戻した。すると、玄関のドアが叩かれた。
「そこにいるんでしょ?」
(警察、呼ばなきゃ)
部屋にスマホを取りに行こうとした。
「俺だよ、竹本哲哉だよ」
僕は固まった。それは間違いなく、先生の名前だった。

「なに・・・言ってるの?」
僕は玄関のドアに向かって言った。
「だから、俺だよ」
「なんで、先生の名前、知ってるの?」
無意識に一歩玄関に近づいていた。
「説明するからさ、ここ、開けてくれないかな」
僕は首を左右に振った。そして、そうしてもあの子には見えないことに気が付く。
「無理。開けられない」
すると、玄関ドアの磨りガラスに黄色いものが映った。その子がドアにもたれ掛かっている。
「じゃ、そこでいいから、話聞いて」
「ちょっと待って」
僕は足音を立てないようにドアに近づく。そして、鍵がちゃんと掛かっていることを確認した。それから部屋に行ってスマホを持って玄関に戻る。何かあったら、すぐに警察に電話出来るように。そして、玄関の上がり框に立って、その子に声を掛けた。
「先生は死んだ。お前誰だよ」
すると、その子は話を始めた。

「俺の今の名前は小鎗亮太。でも、俺は竹本哲哉だよ」
「は?」
「確かに、俺は死んだ。けど、今、ここにいる。信じられないだろうけど」
「信じられるわけないだろ」
「でも、本当なんだよ」
何の詐欺なんだろう。香典寄こせとか、成仏するのに金がいるとか言うんだろうか。
「警察呼ぶからね」
スマホを握りしめる。
「指3本と小指なら大丈夫なのに、親指は入らないよね」
急に何を言い出したのかと思った。
「俺の方が太いのに」
突然、僕の心臓がドキドキ言い出した。土間に駆け下り、玄関のドアに走り寄る。
「なんの話か、優斗君なら分かるよね」
「僕の・・・」
「握って太さ比べて、俺の方が太いって言ったよね、あの時」
僕は玄関の鍵を開けかけた。でも、そこで留まる。
「なんで・・・そのこと知ってるの?」
玄関のドアのガラスから黄色いものが一瞬消えて、また現れた。たぶん、その子がドアのすぐ前に立っている。
「だから、俺なんだって。信じられないと思うけど、俺、ここにいるんだよ」
鍵を開ける。恐る恐る細くドアを開く。その子が立っていた。僕を見ている。僕を見て笑顔になる。
「心配してた。やっと会えた」
その子が言った。
「ごめんな、心配掛けて」
先生とは全く違うその子。でも、一瞬、その姿に先生がダブって見えた。
「ホント・・・なの?」
その子が頷いた。僕はドアを開いた。その子が入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。
「会いたかった」
心より先に身体が理解した。僕は跪き、僕より小さいその子を抱き締めた。
「会いたかった。会って話がしたかった」
その子が言った。そして、その子が僕の頭を撫でた。あの、先生の撫で方だった。
「ホントに、ほんとに先生なの?」
「ああ。こんな姿になっちゃったけどな」
涙があふれ出した。ようやく心が理解した。先生だ。確かにここにいるのは先生だ。僕はまるでその子に、先生にしがみつくようにして泣きじゃくった。
「ごめんな、死んじゃって」
そう言いながら、その子は、先生はずっと僕の頭を撫で続けてくれた。

そのままどれくらいの時間、抱き締めていただろう。
「あの、さ。こんな時に悪いんだけど・・・トイレ貸してくれない?」
僕は笑った。まだ涙は止まっていない。
「寒いのに、ずっと外に立ってるからだよ」
僕は先生を抱き締めていた腕から力を抜いた。
「先生なら、案内しなくても分かってるよね」
「ああ」
先生はまっすぐトイレに向かう。しばらくして出て来ると、勝手に階段を上がって僕の部屋に行く。僕はそのあとからついていく。そして、部屋でまた涙が出てきた。
「そんなに泣くなって」
「だって・・・」
僕は先生が死んで、どんなに辛かったか話した。先生はすまないとかごめんとか繰り返した。いつの間にか、僕は少し先生を責めるような言い方をしていた。先生だって死にたくて死んだわけじゃないのに・・・
「で、さ。説明、聞く?」
先生は僕のベッドの上にちょこんと座っている。その口調とその姿がまったくかみ合っていない。僕はベッドの下で、ベッドにもたれ掛かって座っていた。
「ちゃんと説明して」
先生がベッドから降りて、僕の横に座った。
「あの時、死んだのは事実だよ」
交通事故だった。歩道に車が突っ込んできて、何人か巻き込まれたという、けっこう大きな事故だった。死んだ人も先生だけじゃなかった筈だ。僕はその事故のことを少し話す。
「そうなのか。俺が気が付いてからは、あんまりニュースとかでも言わなくて、詳しいことは知らなかったんだよな」
(死んでもニュースなんて見るのか)
そう思った。
「気が付いたらさ、死んでたんだよ。魂みたいになってて、その辺りふわふわしてた」
先生が手の平をふわふわと動かして見せる。
「優斗君の側にもいたんだけどさ。誰も気が付かなくて。みんなと一緒にテレビ見てたりしたのに」
「それって、幽霊ってこと?」
「たぶん」
先生が僕の手を握る。
「優斗の側にいたいってずっと思ってた。そしたら、いつの間にかこの身体になってた」
僕は先生を、その子をじっと見つめ、そして言った。
「この子に取り憑いたの?」
その子は首を左右に振る。
「憑いたって言われると、たぶん違う。この子の魂はここにいるし」
「どういうこと?」
「つまり、この子には、もともとのこの子の魂と俺の魂、二つが同居してる状態ってこと」
僕は先生を見つめる。
「まぁ、信じられないだろうな。俺もこの説明が正しいのかどうか良く分からん」
また軽く頭を左右に振った。
「つまり、この子もあの事故にあったうちの一人らしい。で、この子はそれが原因で植物人間状態になって、心にぽかっと空きが出来たから、俺が入っちゃったのかなって感じかな」
「感じかなって・・・やっぱ取り憑いたんじゃん」
「少なくとも俺にはそういうつもりはない。奥の方にいるこの子の魂とも話出来るし」
「へぇ」
理解は出来ない。けど、きっと先生がそう言うのならそういうことなんだろう。
「じゃあ、本当に先生なんだね」
「俺の魂は間違いなくここにいる。それは確かだよ」
見た目は全然違うけど、先生だ。それは話をしながら感じていた。なんとなくその仕草や言い方、口調・・・先生と話しているんだ、と感じる。
「先生・・・抱き締めてくれない?」
僕は立ち上がった
「分かった」
先生も立ち上がり、僕を抱き締めてくれた。けど・・・
「なんだか、下級生に抱き付かれてる感じ」
僕の胸の辺りの先生の頭を見下ろしながらそう思った。

夜、ベッドの中で考えていた。
先生は、今は小鎗亮太って子の中にいる。小鎗亮太君は小4で10才、僕より3つも年下だ。でも、本当の小鎗亮太君の意識はその奥の方に行っちゃってて、先生が本来小鎗亮太君の意識がある筈の所に入っている。
取り憑いてるってわけじゃないらしい。もちろん、生まれ変わりでもない。僕のことが心配で、僕の周りを魂のままうろうろしていたら、たまたま空いた身体があってその中に入っちゃったって感じだそうだ。
だから、先生が生きてた、ってわけでもない。死んだのは事実。
(でも、お化けとかって感じじゃないし)
なんとなく戸惑っている。僕の中でうまく納まらないというか・・・なんだか気持ち悪い状態だ。それに、あの小4の子の口からケツマンコなんて言われると、ものすごい違和感しかない。
「ケツマンコの話で一発で信じるって、いいのかなぁ」
先生はそう言ってた。だけど、あのことを知ってるのは間違いなく先生しかいないし。
「で、結局先生は生きてるの? それとも死んでるの?」
「そりゃあ、死んでるだろ。魂しかないし」
なんて話もした。それになによりも・・・・・
(あの子は10才だよなぁ・・・)
それが僕にとって新たな問題だった。

先生とまた会えたこと。それは僕にとっては凄く嬉しい。明日からまた学校に行けそうな気分だ。でも・・・先生の今の姿を思い出す。
(あの子、10才なんだよなぁ)
それが次の問題だった。
(ペニス、きっと小っこいよなぁ)
あの子にしてもらえるんだろうか。してもらえたとしても、先生がしてくれたような、気持ちの良いセックスって出来るんだろうか。
(いやいや、相手10才だし。ヤバいじゃん)
でもあの子の中の人は先生だ。
(聞いてみるしかないかな)
小鎗亮太君だって学校がある。それに近所というわけではない。家の場所を聞いたけど、歩いて2、30分くらいは掛かる。
「それでも同じ市だから良かったよ」
先生は言っていた。もちろん、先生は小鎗亮太として、事故のあと意識を取り戻したってことになっている。あの先生が、普段は小学生のフリをしているわけだ。それを想像するとなんだか笑ってしまう。
そんな先生と、また会って話をすることにした。ひょっとしたら、話だけじゃなくて、それ以外のことも。会う場所は、元の先生の住んでいたアパートだ。鍵は僕が持っている。まだ入れるのかどうか分からないけど、取りあえず今どうなっているのか確認するために二人で行ってみるってことにした。

      


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