2002年クリスマス作品
第2部 古い木造の学校、その2階の教室に祐一と輔はいた。 幽霊が出るとの噂を確かめに興味本位で訪ねた学校で、祐一になにかがおころうとしていた。 「なぁ・・・頼むから、帰ろう。俺、俺、怖い」輔は逃げ出したかった。しかし、祐一を一人置いて逃げるわけには行かなかった。 「大丈夫・・・大丈夫・・・」祐一のつぶやきく声が、まるで別人のように聞こえた。 吸い寄せられるようにその机に座りこんだ祐一の視界が波打つようにゆがんだ。次の瞬間、あたりは暗くなっていた。目の前には・・・一人の少年が立っていた。白いシャツにカーキ色の半ズボン、白い学生帽。あの少年・・・ 「やあ」祐一はその少年に声をかけた。 戦火がこの町にも及ぶかもしれないため、僕等も疎開をすることになりました。お母さんと生まれて間もない弟の祐太と別れて汽車で何時間もかかって行った先は、小さな山の麓の村でした。 僕等はその村にあるお寺で過ごすことになりました。6時に起きて本堂の掃除。そして、畑仕事。勉強、食事。芋の入ったお粥とたくわん。それでも、サツマイモの甘みがほんとうにうれしかったんです。そして、勉強、食事、就寝。そんな毎日を過ごしていました。時々、お母さんに手紙を書きました。こちらでの生活、今日の出来事、そんなことを。お母さんからも時々返事を頂きました。町も空襲にあったこと、でも、大したことはなく、被害も少なかったとのこと。僕の家は無事で、けが人もいないってこと。それを読んでほっとしました。 疎開先の村にも、何人かの子供がいました。その中の一人が、時々お寺の手伝いに来ていて、僕等となんとなく顔見知りになりました。一緒に畑仕事をするようになったり、家からお米を持ってきてくれたりするようになって、僕と敬輔は話をする機会が増えていきました。 敬輔は、何となく みんなのなかでも僕によく話しかけてきてくれました。僕と彼は仲良くなっていきました。他の友達にはないしょでこっそり林檎を貰ったり、ゆでた馬鈴薯を貰ったりもしました。 お礼に、僕は敬輔に本を読んであげました。疎開するときにお母さんが下さった本、「銀河鉄道の夜」。 僕等はジョバンニとカムパネルラのように仲良くなっていきました。 終戦の知らせを聞いたのは、銀河鉄道からカムパネルラの姿が消え、そしてジョバンニが草原で目をさましたくだりを読んでいた頃でした。日本が負けたことは、正直僕にとってはどうでもいいことでした。ただ、家に帰ることができる喜び、お母さんに会える喜びでいっぱいでした。でも、先生方の前ではそんなそぶりを見せるわけにはいきませんでした。家に帰るまでに、僕等二人は「銀河鉄道の夜」を読み終えようと、その日は遅くまで二人で一緒に読んでいました。前ならこんなところを先生に見つかったら、厳しく怒られたのですが、日本が負けてしまってからは先生方もあまり厳しくなくなりました。 |
カムパネルラを失った悲しみをこらえ、ジョバンニが牛乳を抱えて一目散に家に向かう「銀河鉄道の夜」の最後のくだりを読み終えて、僕等は別れました。もう、あたりはすっかり暗くなっていました。敬輔の後ろ姿を見送りましたが、すぐに闇のなかに消えていってしまいました。 その知らせを聞いたのは、次の日の早朝でした。敬輔が家に帰っていないという知らせは、すぐに村中に広まりました。そして、まもなく、お寺から彼の家に向かう途中の大きな池で見つかりました。まるでカムパネルラのように、敬輔は僕の前から姿を消してしまいました。もう二度と敬輔に会うことは出来ないのです。僕が、遅くまで彼を引き留めて本を読んでいなければ、きっとこんなことにはならなかったはずでした。 敬輔と最期のお別れをして、お墓にあの本を供えたあと、僕はみんなと一緒に汽車に乗り込みました。僕は、みんなのようにははしゃぐことは出来ませんでした。 「おい、祐一、おい、しっかりしろよ、おい」輔は、祐一の肩を両手でつかんでその体を揺さぶった。恐怖が限界に達していた。パニックになりそうな自分を必死に押さえて祐一を揺さぶり続けた。 「あ・・・輔」 「あ、じゃねーよ、どうしちゃったんだよ?」恐怖のあまり泣きそうな顔で輔が言う。 「俺・・・夢、見てた・・・のかな?」ぼんやりと、焦点の合わない目を漂わせながら、祐一はつぶやくように言った。 「俺、怖い。なぁ、帰ろう、帰ろうよ」 「うん」 「早く帰ろう」輔は、まだぼんやりして、机から離れようとしない祐一を引きずり出すようにしてその教室を出た。少しでも早く、少しでも遠くに行きたかった。 「なんかね・・・映画でも見てるような感じだったんだ。」翌日、二人は近くの公園で昨日のことについて話し合っていた。 「初めは、外から見てるみたいな感じだったんだけど、気が付いたら・・・その中の一人になってたんだ。目の前になんか昔の景色みたいなのが広がって、そこにあるものにさわって、話をして、考えて、感じて・・・」なんとなく、宙を見ながら話す祐一の目を、輔は怖いと思った。 「それって・・・何かにとりつかれたとか・・・」 「そんなんじゃないよ」輔の言葉を遮って祐一が言った。。 「あの子・・・そんなんじゃないって」根拠はなかった。が、確信はあった。 「俺、夢のなかでは、あの子だったんだ。あの子は優しい子だったよ」 「ホントに・・・大丈夫? 誰かに相談した方がいいんじゃない?」輔が心配そうに言った。 「うん・・・大丈夫だけど・・・あれがなんだったのかは知りたいな・・・」輔は、祐一のその言葉を同意だと受け止めた。 二人にとって、そういうことを相談する相手は町の神社の神主くらいしか思いつかなかった。たぶん、お化けとか幽霊とか、そういった霊的なこと、そういうことを相談して、まともに取り合ってくれそうな人は他に心当たりはなかった。その神主は、祐一の家とのつきあいもあり、話しやすくもあった。 輔は、神主とは今までに二言三言、言葉を交わしたことはあったが、話らしい話をするのはその日が初めてだった。神社の神主は、初老にさしかかったと言える年齢のわりにはしっかりとした体つきで、話ぶりもしっかりとしていた。 (神主さんって、修行とかしてるのかな? だからこんなにしっかりしてるのかな?)輔は話をしながらそう思った。 「ちょっと相談があるんですけど・・・」祐一がそう言ったときも、神主はまじめに取り合ってくれた。 「三人だけで話したいんですけど」輔の希望も理由を聞くこともなく聞き入れてくれた。 (この人になら、話しても大丈夫だな)輔はそう思った。 三人は、人のいない参拝者の控え室のようなところで話をした。事情は輔が話した。ときどき、どういう光景を見たか、そのときどんな感じだったか祐一が補足した。二人が話す間、神主は時々相づちをうつ程度でずっと黙って話を聞いていた。 しかし、あの少年の友達が亡くなったときの話になると、神主は身を乗り出してきた。それまでは少し怪訝そうに聞いていたのが、話の先を促すようになり、そして二人の話が終わると今度は黙り込んでしまった。 しばらくの沈黙のあと、神主ははっきりと言った。 「それは・・・お前のおじいさんのお兄さんだよ、祐一君」 「え、でも、たしか病気で小さい頃亡くなったって?」 「ああ、確かにお前さんくらいの歳で亡くなった」神主の目は遠くを見ていた。 「祐作さんはやさしい人だった。ああ、祐作って名前だったんだよ、お前のおじいさんの兄さんは。わたしもよく遊んでもらったよ。そして、その話を聞いた」視線を祐一に戻した。 「友達が池に落ちて死んじゃった話?」 「ああ。たぶん、他には誰にも言っておらんのじゃないかな。あいつはあんまりそういうことを人に話すやつではなかったからな。辛いことや悲しいことは、自分の心にしまっておいて、人にはそういうところを見せんやつだった」神主は、二人に話すというよりも、自分自身に話しかけているようだった。 「だがな、わたしにはいろいろと話してくれた。わたしのことを気に入ってくれていたようだった。弟のように思っておってくれたのかもしれんな。あのことも、わたしには話してくれた。祐作さんは、ずっと悔やんでおった。自分のせいじゃないかってな」そして、目を閉じた。 「しかし、正直驚いた。あの時の状況は、いまお前さんが夢で見たといって話したこととぴったり一致するんだよ。これはもう、間違いなく祐作さんがお前に話しかけてきたんだよ」しばらくの沈黙のあと、神主は目を開けると、祐一に向かって言った。その表情からは、いま二人が話したことへの疑念は全く見られなかった。 「でも、何で・・・俺になにが言いたかったんだろう」 「それはわたしにもわからん。だがな、恐らく、彼が見せた夢のなかに、その答えはあるのだろうな」 古い学校での出来事以来、祐一は何度も同じ夢を見た。その夢の中にはあの少年はいなかった。ただ、一人で山の麓を歩き、小さな村を抜ける・・・目の前に小さなお墓がある。そして、夢はそこで終わった。 たぶん、敬輔のお墓。いや、間違いなく。そう祐一は感じていた。 その夢のことは輔には言わなかった。少なくとも初めのうちは。しかし、同じ夢を繰り返し見ることに何か意味があるのではないかと気にし始めた祐一の変化に、輔は気付いていた。それからは、夢のことは輔に話すようにした。話せば輔に心配をかけることはわかっていたが、話さなければもっと輔は心配する。だから・・・その日も学校に向かう道で、夢について話していた。 「そんなに気になるなら・・行ってみようよ」輔は夢を気にし続けている祐一に言った。 「でも・・・どこなのかわからないし・・・」決して物事に消極的ではないはずの祐一が、夢のことについては消極的だった。 「そんなの、お前の父さんに聞いてみたらいいじゃん」 「聞いたよ。でも、どこかは知らないって」 「じゃ、神主さんは?」 「そっちも聞いてみた。でも覚えてないって。だいたいの場所なら教えてくれたけど」 「じゃ、そこに行ってみればいいじゃん」輔は結論を出し渋っている祐一に少しいらつきながら言った。祐一が何をためらっているのかはわからなかった。が、そんな祐一の背中を押してやるのも自分の役目なんじゃないかと感じていた。 「お前って・・・だいたいの場所しかわかんないのにどうすんだよ?」まるで触れられたくないことに触れられたように、顔を伏せて歩く祐一。しかし、輔は先を続ける。 「行ったらなんとかなるんじゃないの? あの時みたいに思い出すかも知れないし」 「そんなうまくはいかないと思うよ」祐一の表情が曇った。そんな祐一に、輔は出来るだけ明るい声で言った。 「うまくいかなかったら、そんときはあきらめればいいじゃん。とにかく、行ってみようよ」 「なぁ」そして祐一の肩に手を回した。 |
「お前・・・ちゃんと考えてもの言ってる?」輔の明るい声に祐一の表情が少しだけ明るくなった。 「行ってから考えればいいじゃん。な、行こうよ、一緒に」肩に回した手に力を入れて、祐一の肩を揺さぶった。 「お前って、ほんっと、幸せだなぁ」祐一の表情に笑顔が戻った。(ホントは・・・こいつも行きたかったんだ)輔はそう思った。そしてその日、二人は授業も上の空で計画を立てるのに没頭した。 次の土曜日、二人は電車に乗っていた。あの夢で見た場所に向かう電車、そのシートに二人は向かい合って座り、電車が動きだすのを待っていた。 輔は、祐一の様子がいつもと違うことに気がついていた。なんとなくそわそわしたような、いつもなら気にしないようなちょっとした事を気にしていた。そして、電車に乗り込んでシートに座ると、今度は頭を垂れてじっと黙り込んでしまった。そんな祐一の仕草は、輔にずっとあることを訴えかけているようだった。電車が動き出してしばらくしたころ、思い切って祐一にそれを聞いてみた。 「ねぇ・・・行きたくないの?」 「そんなことはないけど?」ちょっと驚いたような、でもそれを表情に出さない努力をしながら祐一が顔をあげた。 「だって・・・なんかいつものお前と違うし」 「そうかな?」 「そうだよ。なんか・・・なんか、嫌なことがあるときと一緒じゃん」 しばらく祐一はなにも言わずに窓の外を眺めていた。 かなり時間が過ぎて、輔がもう祐一はこのことについてはなにも言いたくないんだと思い始めた頃、ようやく祐一が口を開いた。 「ねぇ・・・あれ、何だと思う?」その声は、輔が体を近づけないと聞き取れないような小さな声だった。 「あれって?」そう言いながら、輔は祐一の横の席に移った。 「夢・・・みたいなやつ」 「あぁ、あれか・・・」 祐一は窓の外を見ていた。すでに電車は郊外を走っていた。窓の外の景色は山と田畑がほとんどだった。そんなのどかな風景の中、お母さんに抱かれた子供が電車に手を振っている姿が通り過ぎた。 「あの夢、ほんとはずっと前から見ていたんだ」祐一は、手を振っていた子供に指先だけで小さく手を振り返すと、また小さな声で言った。 |
「あのときが初めてじゃなかったんだ」 「うん。今までにも何回も見てた。でも、今までのは、本当の夢なんだ」 「寝てるときに・・・見る夢?」そう聞いてみてから、輔は馬鹿みたいな質問だな、と思った。 「うん」そして、少しの沈黙。 「今までは、ただ、あの子、祐作が立っていて、俺の方を見ているだけだったんだ」 「それって・・・けっこう不気味じゃん」 「でもね・・・怖いって感じじゃなくて、寂しいって感じなの」祐一が顔を輔の方に向けた。祐一のその表情は、一瞬あの古い学校で起きた出来事を思い出させた。 「それが、あの学校で急に・・・なんか夢が目の前に出てきて、その中に入っちゃったって感じだったんだ」また顔を伏せる祐一。 「そういう感じは初めてだったの?」輔の声も小さくなっていった。 「うん・・・だから、正直言って、怖い」それはほとんどつぶやきだった。 「怖い?」 「うん。あの夢の中では、俺は俺じゃなくて祐作になってたんだ。敬輔が死んじゃたとき、祐作はすごく悲しく思って、自殺まで考えてたんだ。そして、そのとき俺は祐作だったから・・・俺も死にたいって思った」 「おい・・・」輔が少し大きな声を出した。通路を挟んだ向こう側の席に座って本を読んでいた女性が顔を上げてこちらを見たが、すぐに本の続きに目を落とした。 「あ、今はもう大丈夫だし」 「そう・・・」輔は声が大きくならないように注意しながら言う。 「だから、敬輔のお墓は探したいと思う。お墓参りっていうか、そういうのしてあげたいと思う。でもね、きっと、またあの夢を見るような気がするんだ」 「もし・・・そうなったら?」 祐一は自分の手のひらを太股の間に挟み込み、肩をすぼめて体を小さくしていた。 「今度はどんな夢を見るのか、また自殺したくなったりするんじゃないかって・・・怖いんだよ」 ようやく祐一がためらっていた訳を知り、輔は祐一の背中を押したことを少し後悔した。 「もし・・・もし、お前がそうしたいのなら・・・引き返してもいいよ」 「ううん、そうはしたくない」はっきりと祐一が言った。 「行きたいし、なんとなく行かなきゃいけない気がする」 「大丈夫?」 「わかんないけど・・・だからね、輔に頼みたいことがあるんだけど」うつむいたまま、祐一が言う。 「なに?」 「ずっと一緒にいて欲しいんだ。もし、俺が夢を見て、また自殺とかしたくなっちゃったとき、ほんとに俺がそうしないように・・・見守っててほしい」 祐一の心に思っていた以上に大きくのしかかっていた夢、たいして考えもせず祐一の背中を押した自分・・・いろいろな思いが輔の中を駆けめぐった。 「わかった。ずっと一緒にいるから」 「ごめん・・・なんか、変なことに巻き込んじゃったね」 「いいって。気にすんな」(あやまらなきゃならないのは俺の方だから)・・・なぜかそれは言えなかった。 「うん」そして、祐一はまた黙り込んだ。二人は駅に着くまでなにも話さなかった。 電車は山あいを走っていた。眼下にはごつごつした岩がたくさんあり、その間を川がくねくねと流れていた。その風景を祐一は思い出していた。(そう、たしかに俺はここを通った。) やがて、電車は駅に到着した。二人は無言のままホームに降り立った。そして、祐一は歩き出した。迷うことなく、ある方向を目指して。 2時間近く歩いて二人がたどり着いたのは、大きなお寺だった。 祐一はためらうことなく本堂に入った。誰もいなかった。薄暗い本堂の中に座った。予感があった。そして、あの夢の続きを見た。そんな祐一を、なにも言わずに輔は見守っていた。 敬輔のことを思うと気持ちは沈んで行きました。それでも、僕等の町に汽車が近づくにつれて、少しずつうれしくなりました。もうすぐお母さんに会えると思うと、やっぱりうれしかったのです。 でも、そんな気持ちはすぐになくなりました。僕等の町は、見る影もなかったからです。一面焼け野原で、所々にかろうじて焼け残った建物がある程度でした。駅について汽車を降りると、家に向かって走りました。お母さんは「家は無事で、けが人もいない」って手紙に書いていて下さったので、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせながら、それでもどきどきしていました。あたりの景色が全然変わっていて、今自分がどこにいるのか分からなくなりかけたりもしましたが、もうすぐ自分の家というところまで来て、僕は立ち止まりました。足が動かなくなりました。僕の家があったところに、僕の家はありませんでした。僕の家のあったところもあたりと変わらず焼け野原でした。僕は怖くなりました。 家のあったところに、小さな小屋のようなものがありました。焼け残った戸板で作ったその小屋に、お母さんと僕の弟がいました。僕は涙が出てきました。お母さんが生きていてくださったこと、祐太が無事でいてくれたことがうれしかったのと、家が焼けてしまったのが悲しかったのと、僕はそれを知らずにいままでいたことがくやしかったのとが入り混ざった、とても重くて苦しい気持ちでした。 お母さんは、僕に謝って下さいました。僕を心配させないために、僕に嘘の手紙を書いたのでした。でも、そんなお母さんの気持ちもうれしかったのですが、生きていて下さったのがなによりもうれしいと伝えました。そして、これからは僕がお母さんと弟のために一生懸命がんばろうと決心しました。 幸い、家が焼けてしまうまでに、いくらかのお金は持ち出せたのですが、闇市で買う物はとても高く、お金は見る見る減っていってしまいました。僕も、なんとか働いてお金を稼ごうとしたのですが、なかなか僕のような子供を雇ってもらえるところはみつかりませんでした。 そんな中にも希望はありました。もう、戦争は終わっているのです。もう、空襲とかにおびえる必要はないのです。そしてなにより、お父さんから「もうすぐ帰る」との手紙が届いたのです。その手紙の中で、お父さんはしっかりお母さんと祐太を支えるように僕に言ってました。僕はお父さんに約束しました。お父さんが帰ってくるまで、お母さんと祐太は僕が支えると。 しかし、手元のお金は徐々に減っていき、もう満足な食べ物を手に入れるのが難しくなってきました。弟が病気になったのはそんなときでした。高熱できっと苦しいのでしょう、初めはずっと泣いていたのですが、やがて泣かなくなりました。泣くことも出来ないくらいに弱っている祐太をみて、何とかしなくちゃとは思うものの、どうしようもありませんでした。でも、このままでは、僕の弟は死んでしまうかも知れません。敬輔を死なせ、祐太まで死なせてしまう、そう思うといても立ってもいられなくなりました。 弟に少しでも栄養のある物を食べさせてあげたいと思いました。お父さんとの約束も守らなきゃ、と思いました。そして、大好きな人をこれ以上死なせたくないと思いました。だから、僕はミルクを盗みました。闇市で売っていた、缶入りの粉ミルクをつかんで、そのまま一生懸命逃げました。もう大丈夫だろうと思っても、まだずっと走りました。立ち止まるのが怖かったのです。立ち止まって自分のやったことを思い返すのが怖かったんです。 |
ミルクは祐太の枕元に置いておきました。お母さんに手渡すのが怖かったんです。そして、家を出ました。夜になるまで町をうろうろしていました。自分がしたことは考えないようにしていました。 祐太は徐々によくなっていきました。きっとミルクを飲んだからだと思います。お母さんはミルクのことはなにも言いませんでした。僕もなにも言いませんでした。ただ、帰りが遅かったのは、駅の近くで仕事が見つかったから、とだけ言いました。そして、それから毎日仕事に行くふりをするようになりました。 それからは、何度か盗みを働きました。お父さんと約束したのですから、お母さんと祐太を支えるって約束したのですから。お父さんが帰ってきたら、こんな辛い生活からは解放されるんだと信じていました。はやくお父さんが帰ってきてくれることを毎日祈っていました。お父さんが帰ってきたら、すべてを話すつもりでした。きっと、お父さんなら僕をこの苦しみから救って下さると信じてました。 輔は眠ったように動かない祐一のそばに座ってずっと様子を見守っていた。祐一はほとんど動かず、ときどき寝言のように意味不明なことを口走ったりする程度だった。ときには全く動かない状態がしばらく続いたりもした。そんなとき、輔は祐一の鼻の上に手をかざして息をしていることを確認した。馬鹿げてるとは思いながらも、祐一が生きていることを確認しないと不安だった。 やがて、祐一は目を覚ました。二人はなにも話さないまま、本堂から出て、裏手の墓地に向かった。 祐一は小さなお墓の前に立ち、そしてしゃがみ込んだ。輔は、なんとなく祐一が立ち止まる前から、そのお墓が敬輔のお墓であるような気がしていた。 「ここだね」 「うん」祐一は頷き、そして手を合わせた。 「お花もなんにもないけど・・・ごめんね」祐一がお墓に向かって言う。 「輔もお参りしてあげて」立ち上がって輔に場所を譲った。輔は、なにを言えばいいのか分からなかったので、無言のまま手を合わせた。 |
「あなた方は・・・どちらからこられましたか?」 輔が立ち上がったとたんに、二人の背後から声がした。思わず飛び上がりそうになる二人。声がした方を振り返ると、そこに一人の初老の女性が花を持って立っていた。 「俺達・・・その・・・」輔が答えようとしたが、夢で見たお墓を探しに来たとは言えずに口ごもった。すると、その女性はわかったというような優しい、うれしそうな表情を浮かべ、言った 「私は、ここのお墓に入っている、敬輔の妹なのです」 「え、敬輔・・・さんの妹・・・さんですか?」驚いて聞き返す祐一。 「はい。あなた方、兄のお参りに来て下さったんですね」そう言って、彼女は二人を家へと招いた。 彼女の家は、こじんまりした古書店だった。祐一と輔は、彼女の息子夫婦が切り盛りしている店の奥の座敷に通された。そこには仏壇があった。そして、そこにある写真には見覚えがあった。 「あの・・・俺達、その、変に思われるかもしれないんですが・・・夢で見たんです、敬輔・・・さんを」祐一は言った。冗談だろうと笑われることを覚悟して。 「そうですか。兄のお友達なんですね」彼女はほほえみながら言った。意外な答えだった。 「まぁ、その・・・友達といえば友達なんですが・・・」 「で、そちらは?」彼女が輔の方を指して訊ねた。 「あ、こいつは・・・」 「あ、いえ、わかってますから」祐一が答えかけたのを遮って彼女が言った。なにをわかっているのかを聞こうとしたが、彼女は立ち上がって部屋を出ていってしまった。 それから、彼女はお茶を出し、兄の思い出を二人に話し始めた。彼女は一つの思い出話が終わる度に、「いい兄でした」と繰り返した。思い出話はあたりが暗くなるまで続いた。 「あの、俺達、帰らないと」 「そうですか、こんなにお引き留めしてすみませんでした」 「いえ・・・」 「では、息子に駅まで送らせますね」そう言って彼女は店の方に行き、息子となにやら話をしていた。そして、息子と一緒に戻ってきた。 「いや、すみません、この時間だと、もう、電車ないと思うんですよ」息子の方が申し訳なさそうに言う。 「え、そうなんですか? どうしよう」輔と祐一は顔を見合わせた。 「そこで・・・もしよかったら、今夜は家に泊まっていただいて、明日の朝、駅までお送りさせていただきますけど・・・」 「是非、そうしてくださいな」 「でも・・・」少し戸惑う輔 「そうさせてもらいます」祐一はあっさりそう答えた。 「そうしていただけると兄も喜ぶと思います」彼女はうれしそうに言った。 それからまた、彼女の兄の思い出話が始まった。夕食をごちそうになり、話を聞き、風呂を借り、話を聞き・・・・・二人のかなり眠そうな様子に、ようやく息子がそろそろお開きに、と声をかけた。 二人は、仏壇のある座敷に泊めてもらうことになった。祐一は、仏壇に線香をあげ布団に潜り込んだ。隣の布団では、すでに輔が寝息を立てていた。 翌朝、息子の車で駅に出発しようとした時に、彼女が出てきて祐一に包みを手渡した。 「いつかお返し出来る日が来ると思ってました」 その包みの中には、あの本、「銀河鉄道の夜」が入っていた。60年近く経っているとは思えないほどきれいだった。 「また来てくださいね」そういう彼女に見送られながら、二人を乗せた車は駅へと出発した。 帰りの電車のなかで、祐一はお寺の本堂で見た夢を話した。 「そっか・・・おまえのじいちゃん、苦労したんだな」 「おじいちゃんのお兄さんだよ」 「そうだったな・・・なんか、俺、つかれた。寝る・・・」 そう言って輔は目を閉じた。程なく、軽く寝息を立て始めた。その横で、祐一も目を閉じた。 そして、ようやくお父さんが帰ってきました。しかし、とても疲れた顔をしていました。そんなお父さんの顔を見ると、話すことが出来ませんでした。でも、きっともう盗みなんてしなくてもいいんだと喜びました。 でも、大人にとってもそうそう仕事が見つかるものではありませんでした。お父さんは、毎日出かけていっては疲れた暗い顔をして帰ってきました。どこに行っても仕事がなかったのです。結局、僕はお父さんを支えなければならなかったのです。お父さんが帰って来れば、僕は救われると思っていました。でも、支えなければならない人が一人増えてしまったのでした。 僕は、また盗みをするようになりました。何人かのそういう仲間も出来ました。みんなで盗んで、分け合うようになりました。時には捕まりそうにもなりましたが、仲間が助けてくれました。家にいて、手に入れてきた食べ物なんかについて嘘を言うよりも、そういう仲間といる方が良いとすら思うようになりました。仲間と一緒にいられるなら、盗みもかまわないと思ったりもするようになりました。盗みは悪いことだけど、家族を支えていくためには仕方がないんだからってみんな言ってくれました。 でも、お父さんに僕が盗みを働いていることを知られてしまいました。仕事を探しに駅のほうまで来たときに、盗んで追いかけられている僕を見かけたようでした。その日、夜遅く帰った僕は激しくなじられました。僕は人間のくずだそうです。僕は、家の恥だそうです。僕は、家族を支えるためにはそれしかないと言いました。お父さんが帰ってきたら救われると思っていたのに、結局もう一人支えなきゃいけない人が増えただけだったとも言いました。盗まなければ、祐太は死んでいたことも言いました。でも、言い訳するなと殴られました。そんな汚れたものを口にして生きているくらいなら、死んだ方がましだったとも言われました。お前は家族全員を汚したんだとも言われました。おまえのようなやつは生きている価値はないと言われました。 お父さんのおっしゃるとおりです。僕は、罪を犯しました。盗みはよくないことだって知っています。家族を支えるためというのも言い訳だということもわかっています。でも、あのとき、僕にはそれしか出来なかったのです。弟を死なせてしまって自分は天国に行くのなら、弟を助けて地獄に落ちる方がいいと思ったのです。みんなを支えるため、僕は地獄に落ちてもいいと思ったのです。 でも、お父さんは分かってくれませんでした。僕の気持ちを全然分かって下さいませんでした。僕の辛くて苦しい気持ちなんか、全く分かって下さいませんでした。 僕は生きていることがこんなに辛くて苦しいものだとは思いませんでした。僕を救って下さると信じていたお父さんがなにも分かって下さらないとは思いませんでした。僕は、もうこれ以上、罪を犯したくありませんでした。これ以上、苦しみたくありませんでした。これ以上、家族を汚したくありませんでした。 向こうに行けば、敬輔に会えるかな、そう思いました。彼ならきっと、僕の気持ちを分かってくれると思いました。敬輔ならきっと・・・「たいへんだったね」って言ってくれると思いました。そう思うと涙が出てきました。敬輔に会いたい、敬輔に僕の気持ちを知って欲しい、敬輔に慰めて欲しい、そう思いました。 そして、僕は敬輔のところに行くことに決めました。 その夜、みんなの寝顔を見ました。お父さんには心の中で馬鹿なことをしましたと謝りました。お母さんはきっと悲しむと思いました。祐太は、僕の分まで元気に育って欲しいと頭をなでました。 外は真っ暗でした。そんな中、月明かりを頼りに駅の向こうの池まで歩きました。池の畔で座って、しばらく星空を見上げてぼんやりしていました。そして、夜明けが近づいてあたりがなんとなく明るくなってきた頃、僕は池の中に入りました。 |
僕は多くの人に迷惑をかけました。悪いことだと知っていながら、罪を重ねました。でも、できれば・・・もし生まれ変われたなら、そのときは、僕は自分を犠牲にしても、誰にも迷惑をかけずに、誰かの役に立つことが出来る人になりたいと思いました。あのジョバンニとカムパネルラが見た蠍の火のように、まことのみんなの幸いのために、僕の体をつかって欲しいと祈りました。 輔のよこで眠る祐一の目から、涙がこぼれ落ちた。 |